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「みんなちがって、みんなダメ」中田考

「みんなちがって、みんなダメ」2018 KKベストセラーズ

口述筆記だから軽く読める。

軽く読めて、中田考先生の驚くべき学識(底知れない)、イスラーム的な世界の見方・生き方に触れることができる。

しかし、この本の読みどころは、あらゆる権威をけちょんけちょんにやっつけていくその痛快さにある。

ゲラゲラ笑いながら読むべきである。

早い話が、「みんなちがって、みんなダメ」というタイトルからして、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」を茶化してゐるのである。

パロディである。

 

パロディとは権威を笑うことである。

そしてイスラームの最大の特徴はアッラー以外の権威を一切認めない、その至高にして唯一の絶対性にある。

ぼくがイスラームに惹かれたのはまさにそこだった。

超越的な絶対神アッラー以外の権威を認めない。アッラーを畏れ、服従し、賛美する。

結果どうなるか。

世界はすべて平等になる。

なんてクリアなのだろう。ぼくはこの世界感がとても気持ちがいい。

これは慈悲深くないだろうか。

つまり、アッラー以外は「みんなダメ」なのだから、(少なくとも理論的には)人間は人と比べたり、権威にすりよったりしなくていいわけだ。

「みんなダメ」というのは人間を貶めてゐるのでは決してない。

アッラーが絶対で、アッラー以外の存在はアッラーを畏れ、賛美するほかない。そのくらい圧倒的に「みんなダメ」なのである。

人間には価値はない、価値はすべてアッラーにある。だから人間は安心して「ダメでゐる」ことができる。

これは慈悲深い。これは人間にとても優しい。

愚かで不完全な人間がつくる法は不完全になるほかない。しかしイスラーム法は神が授けた法であるから無謬である。

無謬の法を愚かな人間が完全に守れるはずがないので、その償い方がきちんと用意されてゐる。そして、その方法はだいたい弱者・貧者への施しということになってゐる。

すごい知恵だ。

以下、メモ。

 世界が存在するということが、神の存在証明なんです。神がいなかったら世界が存在しない。世界がなぜあるのかというと、神の意志によってある。神が望んだからある。つまり神によって承認されている。これはあまりにも当たり前なんで、わざわざその本には書いていないのですが、世界に存在するものはすべて、すでに承認された存在としてこの世にあるのです。

 さらにいえば、今存在しているものは今は承認されている。悪人であろうと信仰の篤いものであろうと、今この瞬間は承認されている。ただし、次の瞬間はわからない。いま存在していることは承認の証なのですが、次の瞬間どうなってるかはわからない。

 信仰をもっている立場からすると、基本的には神が満足するかどうかだけを考えて生きているので、他人が何を言おうと、どんな生き方をしようと、自分にとってはどうでもいいことなんです。イスラーム一神教の考え方では、承認欲求も何もかも神に一元化するのが基本です。もちろんそれは目標であって実際にできるかどうかは別ですが、考え方の基本はそこにあります。

 神を満足させられれば、それ以外のことには関心がなくなるんです。それが基本というか目標です。

 でも、みんな自分がバカだと認めなくない。ダメだと思いたくない。それが問題なんです。ほとんどの人間はバカなんです。「本当は自分はバカじゃない、世界に一つだけの花なんだ」という思い込みこそがバカを不幸に追い込むんです。だれもが「世界に一つだけの花」というより「世界に一人だけのバカ」なんです。それを認めることが大事なんです。

 べつにバカでもいいんです。「バカは死ななきゃ治らない」といいますが、イスラーム的にはバカを治す必要はありません。たいていは治りませんから、むしろ「バカは死んでも治らない」が正しい。でも、バカだからといって天国に行けないことはありません。逆に、あんまりバカだと責任無能力者になるので、無条件に天国へ行けます。

 イスラームでは、基本的に知識とか賢さを含めて、すべては預かりもの(アマート)なんです。ただし、それを正しく使わないと、むしろ地獄に行くことになる。どんな力もすべてもっていればもっているほど責任が重くなる。責任と能力はそのまま比例する。能力が大きいほど責任が重くなるというのが基本的な考え方です。だから何もないのがいちばんいい。貧しいほうが責任が少ない。預かりものが少なければ、責任もあまりない。そのほうが楽に生きられるんです。

 ただし、この場合の責任というのは、社会的な責任ではなくて神の前での責任です。イスラームでは最後の審判で、与えられた能力を何に使ったかを問われることになっています。あなたは、与えられたこういう能力を何に使いましたかと聞かれます。正しく使っていれば一応天国に行けるし、間違って使っていれば地獄に落ちる。

 イスラームでは、人間が責任を負わなくてはならないのは神だけです。神に対して以外は一切責任はありません。神から命じられた場合にのみ責任が生じるわけです。たとえば、親が子どもを育てる責任があるというのは、神がそう命じているからです。それも最終的には全部、神に対する責任になります。

 「何をしなければならないか」とは結局のところ善悪の問題です。善悪があるから、すべきこと、すべきでないことがはっきりします。

 善悪の判断基準は究極的には神です。神だけが、人間や物事の善い悪いを判断できる。つまり、イスラームのような一神教への信仰がなければ「何をすべきか」という問いには応えられないのです。

(中略)

 今日「すべき」といわれているものは、たいてい誰かからの受け売りです。昔だと父親だったり、いまだとメディアだったり、学校だったりする。しかし、それらには何の根拠もないと気づくことが、ニーチェ的な意味での偶像破壊です。きちんと偶像が破壊できれば、偶像のいいなりになる必要がないとわかります。そこが出発点なんです。

 ちなみに仏教ではその出発点が終点になっている。すべてが幻想だと知ることで終わっている。しかし、イスラームではそこを出発点として、何をするかが大事なんです。

 一つ、はっきりいえることは、イスラームでは、人間が人間に何かを強制することはできないという点です。イスラームの基本は、従うべきは神だけだということです。これは逆にいうと、神以外のものには従わなくてもよいということにほかなりません。神以外に人に隷従を強いるようなあらゆる権威をイスラームは認めません。当然、人間が人間を従わせようとすることは認めません。

 イスラームではすべての価値は神に属します。人には価値なんてない。日に五回礼拝をするといった行為によって、神に認められることで初めて価値が生まれるんです。価値を見出すには、まず自分に価値がないことに気づかないといけません。

 じつは宗教というのはそういうものなんです。自分に価値のないことがわかる地点に降りていく。

 人はほぼ妄想の中で生きています。リアルなものなんて何もないところで生きている。それを認識して、コントロールできればいいのですが、たいていは無理です。そのために修業を積まなくてはならないのが仏教ですが、それでは修業できる人とそうでない人が、必ず出てくるので万人の教えにはなりえません。結局のところエリート主義になってしまう。修業によってバカがバカでなくなることもあるかもしれませんが、そうでない人のほうが圧倒的に多いでしょう。

 イスラームは万人のための教えです。バカはバカのままでいいんです。妄想の中で生きていたってかまわない。そのために法がある。法はただ守っていればいい。意味はわからなくても、礼拝のような最低限のイスラーム法を守っていれば、バカであっても、そんなにおかしなことや不幸なことにはならない。「仕事をしなさい」なんてイスラーム法には入っていません。仕事をしたって幸せになどなれません。

 人はやっていることの意味を考えがちですが、バカが考えたってバカなことしか考えられないんです。意味はわからないけれど、とりあえず、それをやることで人は幸せになれるんです。

 すでに述べたことですが、人間には「したいこと」「できること」「すべきこと」があります。「したいこと」と「できること」とは、いわばアメリカ的な世界観です。しかし、イスラームのような一神教には「すべきこと」があるんです、ただし、すべきことであっても、それができなかったら、やらなくていい。「すべきこと」は、「できること」の範囲でしか実行できません。もちろん、それはやってみないとわかりません。できるところまでやったのであれば、神から報償がある。できなければ、私の義務ではなかったということです。義務でなければ、「したいことができなかった」で終わります。

 重要なのは「すべきこと」があると理解することです。「したいこと」は、「すべきこと、してはいけないこと」とセットです。ですから「してはいけないこと」を見極めて、「したいこと」をするのがイスラームです。「したいこと」と「すべきこと」が一致するのがいちばんいいのですが、たいていはあまり一致しません。

 イスラーム神学では、人間は意識だけでなく、細胞一つひとつにいたる身体の全体が神に従っていると考えます。そこまで行かなくても、子どもの頃には、両親の言うことを聞いたり、そのマネをしたりするところから、共同体の規範にしたがう道を学ぶことはできます。

 ただ、それだけでは、共同体の「すべきこと」に適応はできても、それが本当に正しいかどうかはわかりません。その正しさの根拠を問うときにイスラームを選ぶ、というのが正しい人間の道です。

 科学技術が発達したからといって、現代を特別と考えると現実を見誤ります。アダム以来人間自体は進化しておらず、どんなに技術が発達しようともバカはバカのままです。AIの発展によって、もはや人間がテクノロジーの進化をコントロールできなくなるシンギュラリティ(技術的特異点)がやってくるという説がありますが、バカがAIを作れば、そのAIは人間に輪をかけたバカになるのがオチです。人間のバカさ加減をなめてはいけません。科学技術の発達に幻惑されず、現代という時代を特別視せず、もっと相対化して、大きな視点で見るべきだと思います。

 たしかにイスラームでも、生きていることは神に承認されていることです。でも、それは神から何をするかを問われているのであって、それに応えなければなんの価値もない。「生かされていつから、あなたの存在に価値がある」わけではない。そこで何をするかによって初めて価値が生まれるんです。いま、生きているということは、つねに悔い改めに開かれているということです。それは生きていること自体に意味があるというのとは、全然、ちがう。生きているだけでは何の意味もないんです。

 この世界では基本的に人間の命がいちばん大切です。イスラームの刑法が守ろうとしているものは生命、財産、宗教、それに名誉と家系です。理性を守るために酒を禁じ、名誉や血統を守るために姦通を禁じる。背教を禁じることで宗教を守る。殺人や強盗を禁じることで生命を守る。窃盗を禁じることで財産を守る、というふうになっています。そんなわけで生命は重要な価値ではあるんです。けれども、イスラームの教えでは来世があるので、何が何でも守らなくてはならないような最高の価値にはならない。もちろん、重要ではあるし、それを守るためには平和がなくてはならない。そういう位置づけです。