イスラーム学者の中田考氏が監修した「日亜対訳クルアーン」が2014年に出版された。それを社会学者の橋爪大三郎氏が高く評価されたことから、二人の対談が企画され、それが書籍化されたのが本書だ。
橋爪氏のまえがきにある。
タイトルからわかるように、イスラームを理解するための根本「クルアーン」を、読解し理解することを目的とする。とりわけ、中田氏の適切な道案内により、初学者や門外漢が陥りがちな誤りを回避し、「クルアーン」とイスラームの核心にストレートに迫る内容となっている。
こんなに濃厚な対談も珍しい、というくらい、テンコモリでお腹いっぱいになる。
ピンと来たところをまとめる。
まづ、第一章「クルアーンとは何か」で、中田氏が「正典」を読むことの重要性を指摘してゐる箇所。
氏によれば、かつての教育では子供にいきなり四書五経などを読ませた。専門家が読んでも分からない正典を子供に読ませる。これはどの文明圏でもやってきたことだ。
ところが、現代の日本はそうじゃない。わかることを教える。簡単なことを教える。そうすると、わからないのは自分が悪いのではなくて、説明できない人間が悪いというふうになってくる。これは現代の一番の問題です。正典の効用は、自分にはわからないことがあるということを教えてくれることです。わからなくてもいいわけですね。どんなに頑張ってもわからないものってあると、人間というのはそういうものであるということをわからせてくれる。そういうものを持っているかいないかというのが、非常に大きな違いになる。日本にはそれがどこにもない。そうすると、何の内容もない、日本人であることの誇りとか、そういうことを言うようになる。それが実際に何なのかは提示できなくて、結局、他民族を貶めることでしか自分たちのことを誇れないというふうになってしまう。 36頁
それから第二章「書物としてのクルアーン」で紹介される「ムスハフ」という概念。
これがすこぶるおもしろい。
まづ、「クルアーン」とはアッラーによってアラビア語で下された言葉である。
その言葉の内容、全体のタイトルを「クルアーン」という。
で、その「クルアーン」が文字により書かれてまとめられたものを「ムスハフ」と呼ぶ。そして「ムスハフ」という言葉は「クルアーン」にしか使わない。
つまり、内容と、それが書物という形をとったものと、それぞれ名前があるらしい。
おもしろいなあ。
1、アッラーは時間も空間も超越した「存在」である。
2、アッラーの言葉であるクルアーンが天上に「書板」として存在してゐる。
4、ムハンマドが授かったクルアーンを紙に書いてまとめたものが「ムスハフ」である。
というわけだね。
こうして整理してみると位相の違いがすごくクリアだ。
神の言葉、神の属性としてのクルアーンがあり、書かれたもの、人間世界でのクルアーンの形態としてムスハフがある。
次元が違うから、言葉も違うんだな。
続いて第三章「クルアーンでわかる世界史」で、中田氏がイスラームにおける「救い」がどのようなものであるかを説明してゐる箇所が面白い。
信仰をもち、クルアーンに従ってよい行いをする。しかし行為をよくしてゐれば救われるということではない。
氏は信仰と行為に関し二つのハディースを紹介する。これがたいへん興味深い。
預言者ムハンマドは、 ほかの人びとよりもたくさん礼拝をしていた。それで奥様が、預言者ムハンマドはもう天国に入ることが決められている、それはもう当然の前提なわけですけれども、それなのに、なぜそんなに一生懸命礼拝をするんですか、と尋ねる。それに対して、私は感謝しているしもべであるからである、という言い方をするのです。つまり、礼拝によって天国に入るのではなくて、礼拝はあくまでも感謝の表現ですと言うんですね。日本だと親鸞にぴったり当てはまるような言葉です。
これもまたハディースで、ちょと長いので端折りますけれど、海の孤島で五〇〇年間、ひたすら礼拝だけをして死んだ人がいた。その人を天使が神様のところに連れていくと、神様が天使に向かって、そのしもべを私の慈悲によって天国に入れなさい、というふうに命じるのです。すると、その人は神に、「主よ、私の行為によって天国に入れてください」と言うのですね。それで、じゃあ、これから審判の計算をしましょうということになった。すると、いままで与えられた神の慈悲の恩寵として、まず目を与えらえた、物が見えるという、その恩寵だけで、五〇〇年分の勤行をした値打ちと釣り合ってしまったので、もうその分の報奨は与えてあるので、もう報奨はないから、じゃあ地獄に行きなさいって、地獄に引き立てられようとしたところで、「いや、主よ、私の行為ではなくて、あなたの慈悲によって天国に入れてください」と頼んで、それじゃあ、天国に入れましょうということになった。こういう話をしたあとで、預言者ムハンマドが、「すべての人間は主の慈悲によって天国に入るのである」と言う。それに対してお弟子さんが、「あなたもですか」ってわざわざ聞き直して、「私も同じである」と答える。そういうハディースがあるのです。
なので、人間の行為によって人間は天国に入るのではない、ひたすら礼拝をするというような行為を含めて、それができること自体、神の慈悲なのである、という考えが、イスラームに内在しているということなのです。 116-117頁
このハディースすごく好きだ。
アッラーは人間が傲慢になるのを許さない。傲慢、増長、思い上がり、こういうものが人間を不幸にする。
よい行いをするというのも慈悲によってできるので、その慈悲に対して感謝する。人間にできるのはそれだけだ。
上記の他にも、本書にはハディースがたくさん紹介されてゐて、超楽しい。
それからシーア派についての説明。
シーア派の中では十二イマーム派が九割以上を占める圧倒的多数である。
他にイスマーイール派というのがあって、これはパキスタン人に多い。この派は、神学的には最後の審判が来てしまってゐて、世の中はもう終わってゐる。だから審判まで有効だったイスラーム法はもう要らないという考えで、礼拝なども基本的にしない。この人達は秘教派(バーティーヤ)である。
十世紀に北アフリカのチュニジアで興ったファーティマ朝は、このイスマーイール派である。終末はすでに来てゐる、イスラーム法も要らない、というのでは統治ができない、やはりどうしても法が必要だというので、スンナ派とほとんど違いがない法学をつくってしまったとのこと。
それからザイド派。ザイドはスンナ派に近くイエメンに多い。九世紀頃にジャルーディーヤという一二イマーフ派に近い分派ができて、これを再生したと言われてゐるのが、イエメンでクーデターを起こしたフーシ派。彼らはイラン革命に影響を受けてゐて、反アメリカ・反イスラエルである。
この事態にスンナ派の湾岸諸国は大慌てであるとのこと。
なかなか複雑で把握するのが骨だ。
第四章「イスラームの歴史・神・法」ではいよいよクルアーンの中身についての解説がはじまる。
クルアーンには大雑把に三つの主題があるという。
1、神について。
2、人間に対する命令、法について。
3、歴史について。
中田氏はまづ歴史について語り、イスラームにおけるアブラハムの重要性について力説する。
ディーン、つまり宗教というレベルでは、偶像崇拝の宗教もあるわけですけれども、神が人間にもたらされた宗教は、あくまでもアダムからムハンマドに至るひとつだけです。それがイスラームです。正しい宗教はアダム以来、すべてひとつなのです。ただし律法、シャリーアは、預言者によって違います。ですから、ムハンマドのシャリーア、イエスのシャリーア、モーセのシャリーアは違う。ムハンマドのもたらしたシャリーアは新しいものです。
これがイスラームの歴史観です。人類の歴史はアダムから始まり、イスラーム教もアダムから始まっている。ただしアダムが生まれた時には、そもそも人間がアダムしかいなかったので、法はありません。その意味では、実質的にはアブラハムから始まるという言い方をします。
このことはイスラームの自己認識にとって非常に重要です。ムハンマドは、自分が新しい宗教をもたらしたなどとは全く思っていませんでした。アラブ的な文脈で言うと、もともと自分たちの祖先であるところのイシュマエルの宗教であるイスラームに戻るのだと考えていました。イシュマエルはアブラハムの子供です。その正しい宗教に帰るのだという認識です。 152-153頁
すごく明快で筋の通った歴史認識だとおもう。イスラームのこういう綺麗な枠組みが好きだ。無理がなく、洗練されてゐて、美しいと思う。
またイスラームの伝承では、マッカの聖モスクはアブラハムが建てたとされています。イスラームの六行五信のひとつであるマッカ巡礼も、アブラハムの事績に因んだものです。
ですから、実は、アブラハムはものすごく重要で、イスラームの中では根本的な部分なのです。アブラハムが諸国民の父祖だとは、いまおっしゃったような意味でまさにキリスト教徒とユダヤ教徒とイスラーム教徒の共通の祖先だったという、そういう預言だった。むしろ、イスラームが入って預言が完成していると言えると思うのです。
アブラハムは信仰によって諸国民の祖となった。じゃあ、その信仰って何かというと、どう考えたって、神に対する、ヤハウェに対する信仰なわけですね。それが、イエスに対する信仰であるというのは、かなり無理な読み方をしないと普通は出てこない。アブラハムがもし救われるんだとすればい、イエスは要らない。素直に考えるとです。アブラハムはキリスト教徒ではなかったとは、そういう意味です。もちろん、モーセよりも前ですから、モーセの律法は守っていませんので、ユダヤ教徒でもない。しかし、アブラハムは救われているはずじゃないか。じゅ、いったい彼は何教徒だったのでしょうか?それがイスラームなのです。イスラームとは、もともと帰依という普通名詞です。特殊な個人の固有名詞とは結びついてないのです。ですので、アダムもそうだし、アブラハムもそうだし、ノアもそうだし、ということです。みんなイスラーム教徒であったと。
ただし法は、時代によって違っていた。それがムハンマドの時点で普遍的な法ができたので、もう要らないという話になっているのです。
たしかに、この説明を聞くと、アンブラハムが「根本的な部分」であるということがよく分かる。
「イスラームが入って預言が完成した」、これが大事。
このあたりの根本的なイシラームの歴史観というのは、日本人はけっこう知らない人が多いのではないかと思う。
実際、ぼくも中田先生の本を読むまで知らなかった。
つづいて神について。
イスラームにおていは神の唯一性(タウヒード)ということを言う。これに三種類の説明がある。
1、神は本体においてひとつである。他に並ぶ神はない。
2、神の本体は複合性ではない。いろんな部分から成り立った複合体ではない。慈悲があり力があり正義があり智がある、そのような人格神である。
3、神が唯一の創造主である。万象はすべて一人の神の創造の御業であり、本当の意味で能動的な行為ができるのは神だけである。
要するに、神がひとつというのは、被造物でない、対立者がいない、属性において被造物と比類がない、そして存在すべての根源であって、価値のすべての根源である。こういったものが神なんだよ、というふうに、クルアーンに出てくる神の模写を抽象していくとまとめられる。これがイスラーム神学の基本です。 171頁
ということなのだが、ぼくは「人格神」という考え方が実はよくわからない。
いや、さぱり分からないと言ったほうがいいかもしれない。
中田先生は「一人の神」という言い方をする。
人格だから、一人、という数え方になるのだろうけれど、神が一人、というその日本語からイメージされるような神というのがどうもピンとこないのだ。
ここが分からないというのは、けっこう決定的なことだと思う。いつか分かるかな。
そして法について。
ここでは、シーア派、十二イマーム派、イランについて議論が面白かった。
どうにもシーア派というのはわかりづらい。
シーア派では、アリー(スンナ派では四代目正統カリフ)がとっても大事で、彼が初代イマームである。
預言者ムハンマドが後継者としてアリーを指名した。アリーが次を指名し、彼がイマームとなり、また次を指名し・・・・というかたちで十二人のイマームがかつて存在したと。これが十二イマーム派である。
で、なんで十二人で終わってしまったかというと、中田先生は「よくわからない」と言う。
面白いなあ。
十二人目の時代は九世紀半ばであるが、十二代目イマームは子供の時に突然消えてしまったらしい。そこに代理人があらわれて、それが四代つづく。この四代の代理人がゐる間を「小幽隠(ガイバ・スグラー)」と言う。
四人目の代理人は次の代理人を指名せずに死んでしまった。それからあとは「大幽隠(ガイバ・クブラー)」になる。
イマームはどこかにゐるのだけれど、決してどこかは分からない。今もそれが続いてゐる。
イマームが存在しないとなると、当然、統治とかできないわけだけれど、シーアというのは本来そういうものだったらしい。
最初から、悪人でしかありえない人間が支配者になってゐて、支配者はすべて悪いという考え、そういうものであるということでずっとやってきた。
すべての権力は不正であるので、できるだけ政治権力から離れて、公権力とは関わらない部分で、シーア派のなかだけでまとめていきましょうというものだった。
一六世紀、イランにサファーヴィー朝とイスラーム王朝ができる。これをつくったスーフィー教団の人びとがもともと無学で、シーア派というのがよく分かってゐないものだから、どういうわけかレバノンあたりからシーア派の学者を呼んできて、十二イマーム派を採用してしまい、どんどんシーア化していった。
そうするとそもそも権力をもつことを想定してゐないシーア派を保護するための世俗権力ができてしまった。
それが最終的にはホメイニ師につながる、ということらしい。
つまり、折り合いのつかないものを、強引につけてゐる、というのが、シーア派・イランの統治原理ということになる。
ヘンテコだなあ。