生活の芸術

正しいことをひかえめに言う練習

「私たちはいまどこにいるのか」「私たちはどこへ行こうとしているのか」小熊英二

「私たちはいまどこにいるのか」2011

「私たちはどこへ行こうとしているのか」2016

著者:小熊英二  出版社:毎日新聞出版

 

 「私たちはいまどこにいるのか」は1997年から2011年までの、「私たちはどこへ行こうとしているのか」は2011年から2015年までの、小熊氏の時評やインタビューや講演を集めたもの。

 ぼくは氏の主著である「単一民族神話の起源」も「民主と愛国」も「1968」も未読である。図書館で手にとったことはあるけれどあまりの分厚さに尻込みしてしまい、これまで避けてきたのだった。しかし今、「次は挑戦してみよう」という気になってゐる。二冊の時評集を読んで感銘を受けたからだ。

 

 小熊氏が岩波書店にゐたことや、朝日新聞によく寄稿してゐること、また反原発デモに関わってきたことから、右翼対左翼、保守対リベラルといった党派的な立場から知識人を格付けしたがる人は、氏のことを「左派系知識人」とみなす傾向があると思う。

 実際、ツイッターばかり見てゐると、そういうふうに相手をレッテル付けて、特定の立場に押し込めた上で、互いが揚げ足取りをしながら、勝った負けたを競いあうという言論のありかたに慣らされてしまいそうになる。

 もちろん、人は党派性からは自由になれないし、言論の枠組みあるいは方便として、対立項は必要だろうと思う。けれど、対立しあう二項の背後に、「普遍性」というものがなければ、対立はただの「勝ち負け争い」に終わってしまうのではないだろうか。

 ぼくはこの二冊の時評集を読んで「普遍性」への志向を強く感じた。ネット言説に日々浸ってゐるぼくには新鮮だった。

 沖縄、憲法、領土問題、デモ、橋下徹などなど、多種多様な事象について語る氏の知識量には驚くほかないが、同時に、変な言い方になるけれど、著者の対象からの距離のとりかたに「気持ちがいい」と感じた。

 個別のトピックを扱いながらもそこから距離をとり、長期的な視点から、それらを一つの「現象」として読み解き、対象に密着しない。そのスタイルがとても気持ちがいい。

 それについて著者自身が言及してゐる箇所を引用する。

(求められたコメントに対して)私は一貫して、日本の近代化一五〇年と、戦後七〇年の歴史のなかで、それらの問題がどのように構造的に発生してきたか、私たちはいまどの位置にいるのかという視点から答えている。

「私たちはいまどこにいるのか」あとがき

 ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」はピューリツアー賞を受賞しましたが、アメリカでのダワーは、日本研究などという、ごくごく地味な領域の研究者です。なぜそんなマイナーな研究領域の本が、一般的になったのかについて、日本語版の「まえがき」に、当人はこう書いている。これは日本のことを書いた本ではなく、人類に普遍的なことを書いた本だからだと。そういう姿勢から学びたいですね。 

「私たちはどこへ行こうとしているのか」所収〈「本が売れた時代」は一時の夢〉

 小熊氏は冷戦後のナショナリズムについて語るときも、安倍政権が強行採決した安保法制について語るときも、「どのように構造的に発生してきたか」を問い、それを「人類に普遍的なこと」として語ってゐる。

 こういう学者の書いたものを党派的立場から読むというのは非常にもったいないことで、そういう読みをしても退屈で物足りない気持ちになるだろうと思う。

 逆に、普遍性に対する敬意をもつのならば、どのような立場の人が読んでも得るところの大きい本だと思う。

 

 次は「民主と愛国」に挑戦したいな。

 いつになるやら・・・