手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「世阿弥 風姿花伝(100分de名著)」土屋惠一郎

 「世阿弥 風姿花伝(100分de名著)」土屋惠一郎 NHK出版 2015

こないだ「ナティヤ・クラマ(Natya Krama)ノート」の中で日本には世阿弥風姿花伝があるという文句を書いておきながら、実は読んだことがなかった。読もうと思った。しかし現代語訳であっても全篇を読む気にならないから、楽をして100分de名著ブックスのものを読むことにした。

気乗りしないことは出来ないものだ。ブログを書くにしても、続けるためには規則的にやっていくことが必要と思うが、他方で気分次第でいろいろやり方を変えるのも大事だと思う。今日はどうも書く気が起きないので、いい加減に済ませちゃう。

本は、たいへん面白かった。100分de名著ブックスは何冊か読んだことがあるが、まことにちょうどいい分量とちょうどいい深さで、本を読む気力がないときでも開いてしまえばすいすい読めそうな気がする。なんしかもろもろちょうどいい(なにそれ)シリーズですわ。

幽玄という言葉は知ってゐたが、まづもって稚児の姿であると言われて、ええそうなんかと驚いた。しかもその稚児というのは多分に男色と関係があるんだと。ひょ。

(・・・)世阿弥は、十二、三歳ころの稚児の姿がまずもって幽玄であると言います。

 まづ、童形なれば、なにとしたるも幽玄なり。 (『風姿花伝』第一 年来稽古条々)

 能楽師としての第一歩は、まずはこの稚児時代にあります。世阿弥自身も十二歳で足利義満に見初められ、二条良基に絶賛されるほどの美少年だったわけですから、この言葉は彼自身の経験に裏打ちされているとも言えるでしょう。 75頁

(能「安宅」では成人後の義経も稚児が演じることを述べ)当時、稚児はいわゆる男色の対象でもありました。この能では、歴史上の事実としては成人していた義経の年齢や服装といった物語のリアリティよりも、小さくて弱々しい存在である稚児を守るというところに焦点が当たっています。考えてみると、弁慶が京都五条での戦いに敗れたのちに忠誠を誓うのは、少年時代の牛若丸です。つまり、少年(稚児)に対する崇拝の念があるというところに、男と男の愛が成立する。大人であるはずの義経をも稚児が演じるこの「安宅」という能は、まさにそのことを示しています。 77頁

それから有名な「秘すれば花」のくだり。全部露出しないほうがセクシーだというチラリズム嗜好を語る際にいかにも軽薄に使われたりするが(男ってホントに・・・)、もちろんそんな意味ではなく、元は勝負に勝つための戦力論だという。

 世阿弥が言う「秘すれば花」は、立合に勝ち、パトロンや観客たちの人気を獲得するための重要な戦術でした。いくらその家の伝統の芸といっても、毎回舞台で見せてしまっていては、観客も見慣れてしまい、「花」ではなくなってしまいます。誰も知らない、「新しく」「珍しい」芸だからこそ、それは「花」となり、勝負の相手や観客を圧倒するのです。 111頁

「花」はもっと観念的ななにかを意味してゐるのだと勝手に思ってゐたのだけれど、ぜんぜんちがった。「花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり」だから目の前の観客を楽しませることに照準した非常に世俗的な概念なんだ。