私としても、現世的には「なってよかった」ことは何もありません。あったとすれば、なにもいいことがなくても平気になったということくらいでしょうか。ですから、ぜひムスリムになりましょう。すいぶんテンションの低い宣教の仕方ですが。 〈46項〉
本書は中田先生のイスラーム学徒としての「遍歴時代」を中心として、基礎的なイスラームの紹介からけっこう専門的な議論、近年の中東情勢まで、かなりいろんなことが書かれてあるのだが、読み終えて、一番こころに残ってゐるのは、実に、上掲の、まったく人間的な、ぼそっとつぶやいたような言葉だ。
なんというか、じーんと来た。「なにもいいことがなくても平気」というのはステキだ。
俗の世界だけに生きてゐると「なにかいいことが起らないか」に囚われてしまい、「なにもいいことがない」と自分は不幸だとか不遇だとか思う。そうして「いい思いをしてゐるように見える人」を妬んで、呪って、いぢめて、叩くんだ。
愚かだ。
「なにかいいこと」というのは要するに「成功」とか「幸福」とかいうことになるんだろう。それを追及するのは悪いことではない、いや、追及したらいいさ。
でも、それが世俗的な意味での「成功」なり「幸福」であるとすると、どこまでいっても比較対象としての「成功してない人」や「不幸な人」を意識しなきゃすまないのではないか。
それでは成功してるように見えたり幸福そうに見えたりするだけで、内心の不安はぬぐえないのではないだろうか。承認に餓えた「成功」や「幸福」ということになるんぢゃないか。
人間は俗なる世界だけでは生きていけない。
ぼくは「なにかいいことに」に囚われてゐる。「成功」や「幸福」に囚われてゐる。「自分」というものに囚われてゐる。とても不自由だ。
「イスラムが効く!」を読んで、そして本書を読んで、イスラームに惹かれた。
それは、少なくともこの二つの本を読んだ限りの印象だが、イスラーム的な「自由」がとても魅力的だからだ。次の箇所、重要である。
神に従うとは、逆にいえば、アッラー以外のものに従わないということです。ムスリムになる際には、まずそのことを誓わなくてはなりません。その誓いを「信仰告白」(シャハーダ)といい、次の二つの章句からなります。
「ラーイラーハイッラッラー」(アッラーのほかに神はなし)
「ムハンマドゥンラスールッラー」(ムハンマドはアッラーの使徒である)
イスラームに入信するときには、この二つの章句をアラビア語で唱えます。第一の章句の「アッラーのほかに神はなし」とは、人間が従わなければならないのはアッラーだけであり、それ以外のものに従ってはならないということです。つまり、アッラー以外の権威をすべて否定するという意味がこめられています。
『クルアーン』には「アッラーを崇め、ターグートを拒否するようにと、我ら(アッラー)はすべての共同体に使徒を遣わした・・・」(第16章36節)とあります。「ターグート」とは、アッラー以外で人間を隷属させるすべてのものの名前です。
アッラー以外の権威を認めないとは、世俗の権力者、聖職者、その他、人に隷属を強いるようなあらゆる組織の権威を認めないということです。イスラームは神中心主義の宗教です。従うべきは神だけであり、いかなる人間や組織にも他者を隷属させる権威はありません。その意味でヒューマニズムという言葉はイスラーム的にはありえません。ヒューマニズムとは人間中心主義であり、そこには人間が人間を従わせるという意味が含まれます。
しかし、ある人間がほかの人間を隷属させるのは、神にみずからをなぞらえる行為であり、それだけですでに反イスラーム的なのです。同様に、他者に隷属を強いる人間に従うことも許されません。権力者や独裁者に従うとは偶像崇拝にほかなりません。
人間は唯一アッラーだけに隷属する存在であり、ほかのいかなる権威にも隷属しない。それはいいかえれば、神以外のあらゆる権威から自由であるということです。この認識を政治、法律、経済から日常生活にいたる人間の営みのすべてについて貫こうとするのがイスラームです。
〈20-21項〉
日本は「自由」だが、「神以外のあらゆる権威から自由である」というような「自由」ではない。たくさんの「ターグート」に隷属(というと言葉がきついか)しなくては生きていけない。
どこに行っても、その場や組織の序列を読み取って、そこで一番「偉い人」にあわせる必要がある。
知らない人と話すことがひどく苦手で、「属性」を明らかにしないと(その人は「上」なのか「下」なのか)関係を作れないのである。
そして最大の「ターグート」は「空気」とか「同調圧力」とか呼ばれるもので、これなどは正体不明のバケモノである。
日本に生まれ育った日本人なら、みんなこれに適応できるかと言うとそうではないので、ほんとに苦手な人というのがゐるのである。
そういう人は一神教が向いてゐるのかもしれない。抽象的な次元に絶対者を置いて、俗世界に立体感を与える。これはまったく見えてゐる世界が違うだろうと思う。
「神」のもとでの平等というのを、実感してみたいものだ。
ぼくはイスラームに関心を抱き、これからいろいろと読んで勉強するつもりだが、それでも自分が「入信」するというのはまったく想像ができない。
それは「帰依」というのがピンとこないからだ。
本を読んで、それを知る、人類の知恵として、理解し、自分の人生に生かす、というのと「入信」して超越神アッラーに「帰依」するのはおよそ次元の異なることだろう。
《イスラームについて知ることとムスリムに「なる」こととの間には途方もないちがいがあります》とある。《ですから重要なことは、この一回かぎりの人生において、人間が自らの意志によってムスリムに「なる」ことなんです。》ともある。
また、次の言葉なども印象的だ。
イスラームは異教徒の目には美しく映らない。それがムスリムになると感性が変わる。ムスリムになって初めてイスラームがすばらしいものに映ってくる。感性と論理が一致するんです。しかし、実際のところ、それはひどくむずかしい。論理的にはやっていけないことを善いと感じてしまう感性、それが変わらなければ意味がないんです。 〈246項〉
いいなあ。
けれど繰り返しになるが「帰依」というのがピンとこない。
実際「ピン」ときてから入信するというのではなくて、順番が逆で、毎日5回礼拝して、クルアーンを暗唱してというイスラーム的な生活を続けていくうちにわかるものなのかもしれない。
信仰というのは何なのだろう。うまくイメージできない。
ぼくは「神もまた人間が作り出したフィクションであり、宗教というのは世界に意味を与えるための体系である」みたいな理解をしてゐる。
「神」はフィクションである、と思ってゐるのだ。
入信する、帰依する、というのは、この認識を捨てることだろう。ぼくにはそれができないと思うのだ。アッラーが全宇宙を創造したと「本当に」信じることはむづかしい気がする。
一方で、ぼくは「聖なる世界」とつながることを欲してゐる。ぼくが伝統舞踊をやってゐるのはそのためだ。エンターテインメントとしてのダンス、自己表現としてのダンスにはほとんど興味がない。聖性を感じたいから神への捧げものである伝統舞踊をやっている。
そういう意味ではぼくはまったく神というもの、あるいは「大いなるもの」を信じてゐる。これは間違いのないことである。
けれど、それを「アッラー」と呼ぶのは難しい。
うまく整理ができない。
入信する人は自分なりに「神の存在証明」みたいなことを経てからするのだろうか。
いや、違うか。
証明みたいなチョコザイなことをしないのが信仰なんだろうな。
じつはイスラーム学とはイスラームを知るための学問ではありません。イスラーム学は自分を知る学問です。テキストに接することで、どれだけ自分とちがうものを見出しうるのか、それを知るのがイスラーム学の意味だと私は考えています。ですから、イスラーム学者の書いたものがつまらないとしたら、それはイスラームがつまらないというより、それを書いているイスラーム学者の中身がつまらないからなんです。「ハディース」に「自分を知る者は神を知る」という一節があります。神を知ることと、自分を知ることは一つなんです。 〈220項〉
いいなあ。