手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「毛沢東と周恩来」矢吹晋

毛沢東と周恩来矢吹晋 講談社現代新書 1991

毛沢東湖南省の農民の子として生まれたが家系を遡ると明代の軍人にたどりつく。

 毛沢東の先祖は毛太華という。朱元璋が明朝を建てたとき、江西省吉州府龍城県(現在の吉水県)から彼の部隊に身を投じた青年がいたが、その青年こそ毛太華である。彼は下級軍官として雲南省まで遠征し、雲南の平定後、軍人としてそこにとどまった。 

 現地には漢民族の住民がいなかったので、毛太華は多くの戦友と同じく少数民族の娘を妻とし、四人の息子をもうけた。毛沢東には少数民族の血が流れているのである。毛太華は老いてから内地に帰ることを朝廷に願いでて、湖南省湘潭県韶山に妻、長男、四男を連れて帰ることをゆるされた。以後約五〇〇年、毛家は湖南で農業を営んできた。 17-18頁

毛沢東はたいへんな読書家で革命中もあらゆる手段を駆使して書物を集め読んでゐた。晩年には個人図書館ができあがるほどだった。

 毛沢東は無類の本好きであったが、外国文学作品は『椿姫』など少数の名著を除けばほとんど読まなかった。中国の現代文学も読まなかった。経済管理の書物、特に外国の社会科した大生産の管理にかかわるものはなおさら少なかった。これは社会主義建設にとって大きなマイナスになったと逢先知はコメントしている。彼が愛読したのは中国の古典であり、晩年は特に『資治通鑑』であった。 42頁

周恩来は有能な実務家だった。革命の理念を現実に着地させるために必要な事務処理能力に長けてゐた。どこの誰にどのような指示を出せばよいのか、計算機のごとく最適解を叩き出し、着実に実行した。

 西安事件をたくみに処理し、事件後の国共合作交渉を成功させた周恩来の功績は不滅である。もしこれが失敗していたら、延安の解放区が消滅し、中国共産党の火種がなくなる危険性さえあった。

 張学良らによる蒋介石兵諫の背景として、共産党側が張学良の東北軍に対してさまざまな統一戦線工作をはたらきかけた事実があることはよく知られている。しかし、そこでおこった突発的な兵諫事件をたくみに利用して、一〇年にわたる内戦をやめさせ、抗日統一戦線を形成するうえで周恩来は決定的な役割をはたした。

 毛沢東と協力してこれをおこなったことはいうまでもないが、蒋介石に直接引導をわたしたのは周恩来その人であり、この種の仕事は周恩来にもっとも適していた。

 周恩来のおこなったもう一つの大きな仕事は、建国前夜の政治協商会議の組織である。共産党は他の民主諸党派との連合をつうじて、連合政府を約束して全国的権力を奪取した。この戦略は、毛沢東の「連合政府論」によって提示されたものではあるが、さまざまな戦術を駆使しながら、みごとに具現化させたのは周恩来の功績である。

 周恩来の個性、個人的な人脈が、ここで大きな役割をはたしている。統一戦線とは、共産党と他の政治勢力との間をつなぐ国内外交ということもできる。師爺周恩来のもっとも得意とするところであった。 202-203頁

革命家と実務家、ふたりの傑物が登場してはじめて大中国の統一と独立が可能になったわけだな。でも革命の理論では安定的統治はできない。大躍進と文化大革命の失敗を経て毛沢東が否定され、鄧小平の改革開放時代に突入する。面白いなあ。