手探り、手作り🐘

物には時節、待てば海路の日和あり🚢

型(かた)のありがたさ。

最近ブログの更新頻度がめっきり少なくなってゐる。書く気力がないわけではない。日本語表記について現時点での考えをまとめておきたいと思い、それに関する本を読み、考えてゐる。

このテーマについては、去年の一月に「国語改革を問い直す」という記事を書いた。時間が経つと気に入らなくなって消してしまった。コメントをくださった方には失礼かもしれない。すみません。

長いこと更新しないと、このままずっと更新しないで、いっそやめてしまってもよいかもしれない、と思う。ぼくはたぶん何十人かのはてなブログを購読してゐるはずだが、みんな少しづつ書かなくなってゆき、やがて開店休業、いま日常的に読んでゐるのは4つか5つだ。

ぼくはこの十年ばかり、習い事をひとつもしてゐない時期がない。いまはオンラインで週に二回、ダンスレッスンに参加してゐる。習い事は一週休むと次行くのがおっくうになる。二週休むともっとおっくうになる。だから、面倒でも、ちょっと楽しくない時期でも、とにかく行くことが大事だ。

そういうわけで、たまにはなにか書いておかないとやめてしまうなと思い、この文章を書いてゐる。まあしかし、つづけても、やめても、どちらでもよい。そう言うことはできる。だから、なにかを始めることも、やめることも、すごくエネルギーがいるのだ。

判断する、というのは実にたいへんなことで、日常のいちいちについてこれをやっていくわけにはいかないので、習慣、というものがある。ふだん考えずに習慣としてやってゐることについて、ほんとうにこれでよいのか? といちいち問うてゐたら、きっと神経症になってしまう。

日本語表記について考えてゐると、その感じがよくわかる。なぜああではなくこうなのだろう? という声が常に聞こえてくるので、ある表記を選択するためのロジックをいちいち招喚してこないといけないのだ。で、そのロジックというのもフィクションに過ぎない。暫定的に仮設したもの。

こないだ花粉の薬をもらいに耳鼻科に行った。診察がおわって吸入器の前にすわった。目の前の張り紙に「使い終った器具は下の消毒液のなかに漬けてください」と書いてあった。ちょっと横の別の紙には「吸入が終わったら待合室に移動してください」と書いてあった。

なぜ、「終った」であったり、「終わった」であったりするのだろうか、という問いが浮んできて、ヤバイ、と思った。理由などありはしない。意味もなくそうなってゐる。

根拠を問うことも、統一への欲望も、ある程度を越えれば神経症だ。

開高健が、たぶん後期の小説で(「夏の闇」かな)、自分の存在が融けて崩壊していく感覚のことを「滅形」という言葉で表現してゐたと思う。「滅形」は怖ろしい。

「滅形」を避けるためには、掃除とか料理とか散歩とか、具体的に身体を動かすのがいちばんよい。ぼくの場合は伝統舞踊がいい薬。伝統舞踊には「型」がある。民族の美意識が結晶した、洗練された「型」である。

自分を型に嵌めることで安心する。

稽古事がある種の癒しの効果をもつのは、こういう次第だと思う。