手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「海辺のカフカ」村上春樹

海辺のカフカ〉〈〉」村上春樹 新潮社 2002

十数年ぶりに再読。村上春樹の長編を読むといつも、世界の成り立ちってほんとうはこういうものなんだろうな、という気持ちになる。

「こちらの世界」と「あちらの世界」がある。ぼくたちは二つが重なりあった世界を生きてゐるのだけれど、ふだんは「こちらの世界」しか見ることができない。「こちらの世界」の論理で考えて、「こちらの世界」のルールにしたがって行動する。

「あちらの世界」においては、時間も、善悪も、人間と動物の区別も、「こちらの世界」とはおよそ異なるありかたで存在してゐる。夢や性愛、井戸、森などが「こちらの世界」と「あちらの世界」の間の領域、あるいは通路として機能する。

「あちらの世界」に行ってしまった人を「こちらの世界」に連れ戻せるか、誘惑に抗して「こちらの世界」に踏みとどまれるか、「あちらの世界」から侵入してくる悪しきものを押しとどめることができるか、などが主題として描かれる。

村上春樹は「こちら」と「あちら」が重なりあった世界を、重なりあったまま描くので、普通一般の論理では理解できない、すべてがメタファーのようにみえる。

「世界はメタファーだ、田村カフカくん」と大島さんは僕の耳もとで言う。「でもね、僕にとっても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。この図書館はどこまで行ってもーーー図書館だ。僕と君とのあいだで、それだけははっきりしておきたい。」

「もちろん」と僕は言う。

「とてもソリッドで、個別的で、とくべつな図書館だ。ほかのどんなものにも代用はできない」

僕はうなずく。 下巻425頁 

ここで図書館とは「場所」であり「記憶」のことである。それは「僕と君とのあいだ」で了解される「ソリッドで、個別的」なもの。「こちらの世界」に踏みとどまり、タフに生きていくためには「場所」と「記憶」が必要なのだ。

「僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける」、ベルが鳴りやんだあとで彼は言う。「大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。でも僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そして僕らは自分の心の正確なありかを知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。掃除をしたり、空気を入れ換えたり、花の水をかえたりすることも必要だ。言い換えるなら、君は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる」 下巻422頁 

本作でぼくがいちばん好きなのは、ナカタさんから「やるべきこと」を継承することを決意したホシノさんによる、渾身の「ひっくり返し」シーン。

「もう一回やってみる」と青年は言って、石に手をあてた。そして息を思いきり深く吸い込み、肺をいっぱいにし、呼吸をとめた。意識をひとつに集中し、石の片側に両手を当てた。これで持ち上がらなかったら、もう二度と機会はない。ここだよホシノくん、と青年は自分に声をかけた。これで決めちまうんだ。ひとつ死んだ気でやれ。それから渾身の力を込めて、うなり声とともに石を持ち上げた。

 頭の中が真っ白になった。両腕の筋肉がずたずたに切れてしまったような感じだ。二個のきんたまはもうとっくに床に落ちているだろう。それでも石は離さなかった。彼はナカタさんのことを考えた。ナカサさんはたぶんこの石を開け閉めするために命を縮めたんだ。なんとしてでもナカタさんのかわりにこれを最後までやりとげなくちゃならない。資格(原文傍点)をひきつぐんだ、と黒猫のトロは言った。体中の筋肉が新しい血の供給を求めていた。肺はその血を作り出すために必要な新鮮な空気を求めていた。でも息を吸い込むことができない。自分が限りなく死に近接しているのがわかった。すぐ目の前に虚無の深淵が口を広げている。しかし青年はもう一度あらんかぎりの力をかき集めて、石を手前に引き寄せた。石はなんとか持ち上がり、大きな音を立てて、裏返しに床に落ちた。その衝撃で床が揺れた。ガラス戸がぴりぴりと震えた。すさまじい重さだった。青年はそこに座りこんだまま、大きく息をした。

「よくやった、ホシノくん」、少しあとで青年は自分に向かって言った。 下巻404-405頁

ここの描写はとても感動的だ。

カフカの父はかつて「あちらの世界」に行き、「善とか悪とかいう峻別を超えた」「力の根源」みたいなものを連れ込んでしまった人だ。その根源はときに善にもなり、悪にもなり、芸術的才能ともなる。

ナカタさんは「力の根源」が純粋なる悪として実体化した存在であるジョニー・ウォーカーを殺し、入り口の石を開いた。

それによってカフカは「あちらの世界」に行き、佐伯さんに会うことができた。そこで「遠い昔、捨ててはならないものを捨て」てしまった佐伯さんを、「捨てられてはならないものに捨てられた」カフカはゆるす。カフカは父の呪いを解き、「こちらの世界」に帰ってくることができた。

カフカはナカタさんとホシノくんの物語を知らない。ナカタさんは死に、ホシノくんは虚無の深淵にまで立った。それをカフカは知らないのである。

そういうことってあると思う。きっとそういうものなんだ。でも、それでよいのだ。

なぜなら彼らは互いのことを知らないけれど、分かってゐる。世界はメタファーであり、ほんとうはすべてが関連し、つながってゐることを。