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「新対話篇」東浩紀 他

新対話篇東浩紀 他 2020 ゲンロン

面白かった~、最高でした。哲学って大事よねと思う。ほんとに。

10の対談・鼎談を収録。

中沢新一さんとの対談「種の慰霊と森の論理」、

國分功一郎さんとの対談「正義は剰余から生まれる」、

が特に印象に残った。こういう議論をこそすべきなんだよな。

以下、メモ。(敬称略)

「種の慰霊と森の論理」

イデオロギー愛国心もない、地域共同体は崩壊し、宗教も機能してゐない。そういう日本で「個体の死を超えるもの」について考えるためにどのような思想的リソースを呼び出せるか。

中沢は「種の論理」と「ジオの思想」を召喚すべきであると言う。種的概念としての「イエ」について、

 イエとは、国民の一人ひとりが感じ取り、価値を見出す「永続させるべきなにか」の詰まった「種的な容器」です。そのイエを持続させていくことが必要です。イエは、生産や商売のための機能体として、庶民のあいだで生きつづけてきたものですが、いまやその働きを文化的なレベルで果たしているのが、天皇制ということになります。戦後は国家と天皇の一体性が切り離されましたが、そのおかげで、本来は国家とは異質なイエの概念が、象徴天皇として蘇ってきたともいえます。イエのイメージをまとった象徴天皇の機能とは、そのようなものではないかと思います。

 「種の論理」に立って考えると、生命において「個体の死を超えるもの」といえば、それはゲノムの構造にほかなりません。このゲノムの相当するものが、文化や精神の領域でも見出されなければならない。戦没者慰霊のまえで深々と頭を垂れる天皇や、東北の被災地の夏の祭りに死者の霊を迎えようとしている人々の行為のなかには、深く共通するものがあり、それは求められている精神レベルのゲノムに触れているように思います。 114頁

「ジオの思想」の「ジオ」とはgeo-logy(地理学)やgeo-politics(地政学)における「geo」のこと。鍵となるのは「大地」と「植物」。

 このように問題を「ジオ」の視点で考えることは、大地的なもの、大地的な力を思考に取り込むことを意味します。もうすこし軽く表現して、自然過程をシステムのなかに取り込む、と言ってもいいでしょう。ヨーロッパの思想にはどこか「足を持って移動できる存在」である動物の比喩によって思考することを好むところがあります。デリダの最晩年の思考が、動物性と主権の主題だったことはじつに示唆的です。動物の本質は「脱領土化」していくことにあります。けれども、人間性の根源に、古代ギリシア人やアメリカンインディアンや日本人のように、大地から生え出る植物の本質が関係しているのだとしたら、ぼくたちは動物性と植物性、脱領土化と領土化の関係を、ぼくたちの流儀でもういちど考えなおす必要があるのではないでしょうか。とりわけ、日本や日本人について考えるときには、植物の観点を抜きにすることはできません。 122頁

「正義は剰余から生まれる」

「信じる」ことをどうやって取り戻すかについての議論に深く共感。考えこんでしまった。今の大衆はなにも信じてゐない。だからこそ何でも信じてしまう。

東  (・・・)情報をいくら与えても、ひとの意見は変えられない。(・・・)情報提供のテクノロジーはインターネットの登場で格段に進歩しましたが、一方でひとを「信じさせる」テクノロジーに関しては、ぼくたちはまったく原初的なものしか持っていない。それこそ、結局、会って握手をするとかがいちばんだったりする。情報を与えることが意味をなさない世界にぼくたちは生きている。

國分 情報は意見を変えない、というのはいい指摘ですね。情報を与えても意見は変わらないし、なにかを信じさせることもできない。いままでの傾向を強化するだけであると。だからこそ、どうやって「信じること」が発生するのかを考えなくてはいけない。

東  これは根深い問題です。いまの世界にはいわゆる「エビデンス」が大量に溜まりつづけていて、それによって過去の「検証」がいくらでも可能になったと考えられている。けれどもこれは危険な傾向でもある。(・・・)エビデンスがあれば事実はひとつに決まるかと思いきや、そんことはまったくないんですね。にもかかわらず、エビデンスさえあれば事実は確定する、「ほんとうの過去」を検証できるという信念ばかりがひとり歩きしているので、むしろ問題が増えているように思います。この問題は、さいきほどのアイデンティティ=主体が確定しないという問題と深くつながっています。エビデンスが多くなればなるほど、歴史修正主義の誘惑が強くなるということですね。 187-188頁

東によれば「信じる」とは現在の時間の外に出ることである。SNSが世界を覆った現代では、「いまここ」の「コレクトネス(正当性)」にもとづいて判断しリアクションすることが求められ、時間的な幅を消してしまう。したがって「ジャスティス(正義)」の感覚をもてず、「信じる」ことができない。

國分 (・・・) 正義は目の前の確実な証拠によって行うのではなく、いつか実現されるものとして「信じる」対象でしかありえないはずです。現在は、情報が溢れているという意味では正義の条件が整っているように見えますが、もっと大事な条件である「信じる」ことが切り崩されているのでは意味がない。

(・・・)

東  そしてそれは、主体が失われ主権が失われることともつながっている。「いまここ」のデータの連続しかなくなってしまった世界で、時間を超えた主体や正義をふたたびどう立ち上げるかが問われているわけです。 204-205頁