手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思ふのです。」

夏目漱石「こころ」、第十四章。

「私」は「先生」に対して、近づきがたいような、しかしどうしても近づかなければならないと迫られるような、不思議な引力を感じてゐる。若い「私」には、教壇に立つでもなく、著述をなすでもなく、ただしづかに一人を守る「先生」が誰よりも偉く見える。

「先生」は「私」から向けられる熱い思いを苦しく感じる。そうして自分を無暗に尊敬する「私」に、「信用してはいけない」と言う。

 「そりやどういふ意味ですか」

 「かつてその人の膝の前に跪いたといふ記憶が、今度はその人の頭の上に足を乗せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思ふのです。私は今よりいっそう淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己(おの)れとに満ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味はわなくてはならないでせう」

 私はかういふ覚悟をもつてゐる先生に対して、云ふべき言葉を知らなかった。

いまの言葉で言えば、「私」は承認欲求に苦しんでゐるのである。尊敬すべき「先生」を高いところに祀り上げて、一途に思い詰め、近づくことで、自分の存在に意味を与えたい。

しかし「先生」はそれを拒絶する。なぜなら「かつてその人の膝の前に跪いたといふ記憶が、今度はその人の頭の上に足を乗せさせようとする」こと、すなわち、盲目的な尊敬がいとも簡単に侮辱へと転換することを知ってゐるからだ。

「先生」と「私」の関係性では、「先生」が上であり強く、「私」が下であり弱い。この構造の強化を下位の「私」の側が求めてゐる。偉い先生にもっと高いところに上がってもらって、自分が近づき、認めてもらうことで、承認欲求を満たして欲しい。「先生」からすれば、それは「私」が自分の膝の前に跪くような態度に感じられる。

「先生」が「私」の求めるような権威主義的な主従関係を受け入れ、それを演じることはたやすい。しかしそれをしない。なぜなら、跪いて承認を得ることに慣れた人間は、自分の望むような承認を得られなくなったとたんにそれを侮辱と捉え、態度を一変させて「その人の頭の上に足を乗せ」ようとしてくるからだ。

自己を卑下して権威者に愛されようと試みるが相手に拒絶される。そのとき、自らすすんで行った卑下を屈辱に感じて怒り出す。「先生」はこのような尊敬から侮辱への転換を怖れたのである。だから「今よりいっそう淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したい」と言う。

漱石を読むと、どう転んでも人間は淋しいものだと思う。