手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「細君から嬲られる時の軽い感じ」

漱石の「明暗」を読んでゐる。どこを読んでも見事な文章でひたすら感嘆してゐる。

第十二章、津田は手術のために会社を数日休む旨を伝えに上司の吉川の家へ行く。しかし吉川は不在である。津田は細君に言伝をたのむ。

  細君は快く引き受けた。あたかも自分が人のために働いてやる用事がまた一つ出来たのを喜ぶやうにも見えた。津田はこの機嫌のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉しかつた。自分の態度なり所作なりが原動力になつて、相手をさうさせたのだといふ自覚が彼をなほさら嬉しくした。

 彼はある意味において、この細君から子供扱ひにされるのを好いてゐた。それは子供扱ひにされるために二人の間に起る一種の親しみを握る事が出来たからである。さうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであつた。

津田は細君に甘えるのが心地よい。また細君のほうは津田が甘えてくるのがかわいい。よくある甘え/甘えられの関係である。甘え/甘えられの関係は同性間でも当然あるものだ。しかし、そこで生じる親しみの種類は異性間のそれとはおのづから別のものなのである。

異性間の親しみといってもエロス的な関係につながったり生々しい官能が生まれるものではない。けれど確かにそれは「男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみ」なのだ。ここでは女が年長で男が年少であるが、もちろん逆もある。どちらの場合も「子供扱ひにされる」ことの気持ちよさがある。

  同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱ひにする事の出来ない自己をゆたかに持つてゐた。彼はその自己をわざと押し隠して細君の前に立つ用意を忘れなかつた。かくして彼は心置きなく細君から嬲られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁によりかかつてゐた。

津田は表面的には細君に甘えながら、心の奥では「あなたの見てゐるわたしはほんの一部なんですよ」と別の自己を隠してゐる。漱石の筆にはなかなかに容赦ない酷薄な感じがあるけれども、こんなことは誰でもやってゐることである。

「子供扱ひにされる」気持ちよさを「嬲られる時の軽い感じ」と書く。「嬲(なぶ)られる」だけならちょっと語感がきつい。「軽い感じ」だと何のことかわからない。「嬲られる時の軽い感じ」と組み合わせて、なんということだ、まことに、そんな感じだ。「心置きなく」がまた絶妙に効いてゐる。

「明暗」は全編がこの種の苦笑してしまうほど核心を突いた心理描写で構成されてゐる。

第二十六章には吉川夫人と対照的な人物が登場する。父の弟の妻、すなわち義理の叔母である。津田は無心のために叔父を訪ねる途中で甥っ子に出会い、空気銃を買ってやる。

 彼女は子供が買つて貰つた空気銃の礼も言はずに、不思議さうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど愛想といふものがなかつた。その代り時と場合によると世間並の遠慮を超越した自然が出た。そのうちにはほとんど性(セックス)の感じを離れた自然さへあつた。津田はいつでもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。さうしていつでもその相違に驚いた。同じ女、しかも年齢のさう違はない二人の女が、どうしてこんなに違つた感じを人にあたへる事が出来るかといふのが、第一の疑問であつた。

吉川夫人と相対してゐるときには「嬲られる時の軽い感じ」があり、「男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみ」が生じる。

他方、叔母から感じられるのは「世間並の遠慮を超越した自然」であり「ほとんど性の感じを離れた自然」なのだ。「性の感じを離れた自然」ってなんですかね。ちょっと面白いな。けれど、すごく分かりますよ。ほんとに。

「明暗」は漱石作品ではかつてないほど女の模写が多い。女達が主人公ともいえる。

とにかく「明暗」は最高。