手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「空気の研究」山本七平

空気の研究山本七平 文春文庫 原著は1977年刊行

あまりにも有名な本。

今まで読まずに済ませてきた。

びっくり。想像以上の名著だった。

今の日本の分析にそのまんま適応できてしまうので驚いた。

 日本人は「情況」を臨在感的に把握し、それによってその状況に逆に支配されることによって動き、これが起る以前にその情況の到来を論理的体系的に論証してもそれでは動かないが、瞬間的に情況に対応できる点では天才的」という意味のことを、中根千枝氏は大変に面白い言葉で要約している。「熱いものにさわって、ジュッといって反射的にとびのくまでは、それが熱いといくら説明しても受けつけない。しかし、ジュッといったときの対応は実に巧みで、大けがはしない」と。

 オイルショックのときの対応の仕方は、まさにこの言葉の通りだが、過去を振り返ってみれば、公害問題でも同じである。この傾向は確かにわれわれにあり、またあって当然と言わねばならない。われわれは情況の変化には反射的に対応はし得ても、将来の情況を言葉で構成した予測には対応し得ない。前に’’カドミウム’’のところで「科学は万能ではない」という新聞投書を引用したが、その人が主張のつもりで言っていることは実は現実であって、言葉による科学的論証は臨在感的把握の前に無力であったし、今も無力である。 212-213頁

ここなんかコロナウイルスをめぐる日本の対応そのまんまという感じがする。

ジュッというまでぼんやりしてゐる。それで大けがしないかはこれから明らかになるんだろう。 

臨在感的把握、というのが「空気の研究」における鍵概念だ。

物質・物体、対象に感情移入してその情況を絶対化してしまう。それにより逆に情況すなわち「空気」に支配されてしまう。そのような思惟形態を山本は臨在感的把握と術語化する。

 ではここで、われわれはもう一度、何かを決定し、行動に移すときの原則を振りかえってみよう。それは「『空気』の研究」でのべたとおり、その決定を下すのは「空気」 であり、空気が醸成される原理原則は、対象の臨在感的把握である。そして臨在感的把握の原則は、対象への一方的な感情移入による自己と対象との一体化であり、対象への分析を拒否する心的態度である。従ってこの把握は、対象の分析では脱却できない。簡単にいべあ、石仏は石であり、金銅仏は金と銅であり、人骨は物質にすぎず、御神体は一個の石であり、天皇は人間であり、カドミウムは金属であると言うことで、これから脱却し得ない。もちろん、一見脱却したかの如き錯覚は抱きうる。だがそう錯覚したときその者は、別の対象を感情移入の対象としたというだけ、簡単にいえば「天皇から毛沢東へ転向した」というだけであり、従って何らかの対象が自己の感情移入の対象になりうる限り、言わば、偶像すなわちシンボルと化すことができる限り、対象の変化はあり得ても、この状態からの脱却はあり得ない。 154頁

ではどうしたら脱却できるのか。

山本によれば、

あらゆる拘束を自らの意志で断ち切った「思考の自由」とそれに基づく模索だけである。

とのことだ。

 そしてそれを行いうる前提は、一体全体、自分の精神を拘束しているものが何なのか、それを徹底的に探究することであり、すべてはここに始まる。   169頁

 ここだけ切り取ると拍子抜けするくらい陳腐だけれど、それしかないんだろう。