東京工業大学「未来の人文知研究センター」、伊藤亜紗さんの著書。
吃音(どもり)という現象を心身二元論的な視点から分析。
こころでは「〇〇と言いたい」と思ってゐるのに、体がそれを受け付けてくれない。
だから、どもる。
このとき、こころとからだのあいだでは何がおこってゐるのか。
紹介されてゐるゲラシム・ルカという人の詩を見てみた。
「詩的どもり」の手法にもとづく詩とのこと。
「パッションでイッパイで(Passionnément)」
全部見てしまった。感想を言えない(なんとも言えない味わい)。
ただ、ものすごく惹きつけられた。
それから、ヴァレリーを援用して「なぜリズムにノるとどもらないのか」について書かれた箇所が面白かった。
リズムは反復することによってパターンを強化する。それにより過去を現在に重ねあわせ、未来を「新しくなくする」。
だから安心する。
再びヴァレリーの言葉を引用しましょう。
リズムにおいては、「先行するものと後続するもののあいだにつながりがある」とヴァレリーは言います。そのつながりとは「すべての項が同時に存在し、活性化されているかのような、けれども継起的にしかあらわれないような、つながり」です。(略)
ひとつのモデルが、そのつど変奏されながら、何度も繰り返しあらわれること。そこにあらわれるのは通常とは少し異なる時間のあり方です。なぜならリズムにおいては、「継起的」と「同時的」の区別が曖昧になるからです。時間はもはや、過去から未来への進む一方向の流れではなくなります。流れが折りたたまれ、現在の上に過去や未来が重ね合わされるのがリズムの時間だからです。 162頁
ぼくは「キム・ヨナの芸術」で同じようなことを書いたような気がする。
マイケル・ジャクソンについての記述だ。
ベースラインに揺られながら、少しづつ、少しづつ、ちょうど、螺旋階段でも上がっていくように、聴衆のテンションもあがりはじめる。
やがて、聴衆はエクスタシーに達し、何度も「イク」ことになるわけだが、彼等が一番感じてゐるのはどこだろうか、彼等は何をきっかけにイッてゐるのか。
それはターンである。
マイケルがクルっと回ってピタっととまる。そのあまりに完璧なターンに痺れてしまう。
シンプルな曲だから、聞いてゐる者はすぐに曲の構造を把握し一体化する。だから、マイケルのターンがいつやってくるのか、こちらも予想してゐる。
くるぞくるぞ、回るぞ、と思って見てゐる、そこへ、今だ、ここしかない、というタイミングでマイケルが完璧なターンを決める。
そこでイっちゃう。
「螺旋階段でも上がっていくように」というのがまさに、「流れが折りたたまれ、現在の上に過去や未来が重ね合わされる」時間について言おうとしたことだ。
マイケルと同じリズムを共有することで、同じ未来を共有し、身体的に共振して、一緒にイク。
我が意を得たり、という気持ちだ。