主人公の津田は清子への未練を抱えながらお延と結婚してしまった。そのことがお延を苦しめ、夫婦関係は危機にある。
津田とお延との仲をとりもったのは吉川夫人。夫人は、津田が清子にまだ執着してゐるのを見抜いてゐる。それでは本当の夫婦になれはしない。
夫人は津田を追い詰める。ケリをつけろと。
「ぢや云ひませう」 と最後に応じた時の夫人の様子はむしろ得意であつた。「そのかわり聞きますよ」と断つた彼女は、果して劈頭に津田の毒気を抜いた。
「あなたはなぜ清子さんと結婚なさらなかつたんです」
問いは不意に来た。津田はにわかに息詰まつた。黙つてゐる彼を見た上で夫人は言葉を改めた。
「ぢや質問を変えませう。--清子さんはなぜあなたと結婚なさらなかつたんです」
今度は津田が響の声に応ずる如くに答へた。
「なぜだかちつとも解らないんです。たゞ不思議なんです。いくら考へても何にも出て来ないんです」
「突然関さんへ行つちまつたのね」
「えゝ、突然。本当を云ふと、突然なんてものはとつくの昔に通り越してゐましたね。あつと云つて後ろを向いたら、もう結婚してゐたんです。」
「誰があつと云つたの」
この質問ほど津田にとつて無意味なものはなかつた。誰があつと云はうと余計なお世話としか彼には見えなかつた。然るに夫人はそこへ留まつて動かなかつた。
「あなたがあつと云つたんですか。清子さんがあつと云つたんですか。あるいは両方であつと云つたんですか」
「さあ」
津田は已むなく考へさせられた。夫人は彼より先へ出た。
「清子さんは平気だつたんぢやありませんか」
「さあ」
「さあぢや仕方ないわ、あなた。あなたにはどう見えたのよ、その時の清子さんが。平気には見えなかつたの」
「どうも平気のやうでした」
夫人は軽蔑の眼を彼の上に向けた。
「随分気楽ね、あなたも。清子さんの方が平気だつたから、あなたがあつと云はせられたんぢやありませんか」
「あるいは左右かも知れません」
「そんならその時のあつの始末はどう付ける気なの」
「別に付けようがないんです」
「付けようがないけれども、実は付けたいんでせう」
「えゝ。だから色々考へたんです」
「考へて解つたの」
「解らないんです。考へれば考へるほど分からなくなるだけなんです」
「それだから考へるのはもう已めちまつたの」
「いゝえ矢張り已められないんです」
「ぢや今でもまだ考へてるのね」
「さうです」
「それ御覧なさい。それがあなたの未練ぢやありませんか」
夫人はとうとう津田を自分の思ふ所へ押し込めた。
「139章」
読みやすいように表記を若干改めました。
夫人は津田がなんとなく発した「あつと云つて後ろを向いたら」ということばの尻をつかまえて、津田を黙らせ、最終的に自分の思うところへ「押し込め」てしまう。
「明暗」では各所でこのようなことばによる格闘、緊迫した会話劇が展開される。
相手のことばをとらえ、それを自分が優勢に立てるような文脈に転換し、そこへ相手をねじこんでいく。
夫婦が、上司と部下が、兄と妹が、友人同士が・・・「血沸き肉躍る」壮絶なエゴイズム大戦争を繰り広げる。
「誰があつと云つたの」
津田は無意味な質問だと思う。その通りだ。まったくもって無意味な質問だ。それだけに津田に一瞬のスキがうまれた。
そこを夫人は見逃さない。本能的に「ここだ」と察知する。
そうして大きく一歩を踏み出す。
「あなたがあつと云つたんですか。清子さんがあつと云つたんですか。あるいは両方であつと云つたんですか」
詭弁である。こんなもの、ことば遊びに過ぎない。どちらがあっと言っただと?どちらもこちらもあるものか。
しかし、この「誰があつと云つたの」という問いには、人間の行為に関する本質的な謎が秘められてゐるかのような、妙に哲学的な響きがある。
いったい、人と人との関係において、何かがなされるとき、ある行為が行われるとき、果して、主体というのはどこまで明確なのだろうか、といった問題だ。
「両方であつと云ふ」なんて詭弁のようだけれども、しかし人間は関係のなかで生きてゐる以上、そういうこともありうるのではないのか?
「あつと云つて後ろを向いたら」清子はもう結婚してゐたのだから「あつと云つた」のは津田に決まってゐる。しかし、
「清子さんがあつと云つたんですか。あるいは両方であつと云つたんですか」
と問われたとたんに、津田は、この謎に落ち込んでしまうのである。
夫人の問いが、自分の過去の行為に関する認識をゆるがせ、津田は黙り込んでしまう。
その刹那、夫人の頭には制圧までの道筋が見えた。勝負あった。
夫人は、この問いに、津田自身では気づけない方向から回答を与える。
「清子さんの方が平気だつたから、あなたがあつと云はせられたんぢやありませんか」
清子があっと言ったのでもない、両方であっと言ったのでもない、お前があっと言わせられたんだ。それは清子が平気だったからだ。
お前は清子に負けたから、清子にあっと言わせられたんだ。
そういうことになる。
そして清子に負けたのと同じように、まさにこの問答によって、津田は夫人に負け、あっと言うまに、夫人の思うところに押し込められてしまったのだ。
夫人の方が平気だったから、津田があっと言わせられたわけだ。
人間同士のつばぜりあいにおいては、迷ったほうが負ける、肚の据わってゐるほうが勝つのである。
「明暗」では、「決められない男」が負けつづけ、「肚の据わった女」が勝ちつづける。
津田が「あつと云はせられ」続けて、どんづまりの状況に流れこみ、押し出されるようにして清子に会いにいくのである。
そこで・・・・
漱石が死んでしまったので、その先をわれわれは永遠に知ることができない。