「美徳のよろめき」1957
おもしろかった。
三島由紀夫を読むのは高校生のときに「金閣寺」を読んで以来だから15、6年ぶりということになるのか。
金閣寺はつまらなかったから、当時のぼくは「ああ、三島がわからないなんてショック」などと思った記憶がある。それからほっぽらかしにしてゐた。
今回、知人にすすめられて「美徳のよろめき」を読んだ。
金閣寺の印象とはまったく違って、実に気楽でのびのびとした「不倫小説」だった。
「美徳のよろめき」ってタイトル、かっこいいなあ。
文章がきらきらしてて、読んでるとうきうきしてくる。
三島さん、書いててすごく楽しかったぢゃないだろうか。
たとえば、大谷翔平がホームラン競争してゐるのとか、イチローが遠投競争してるのを見るのって楽しいぢゃないですか。
この小説、そんな感じなの。ありあまる才能を与えられた作家が「ま、これくらい、書けますよ、はっはっは」くらいの感じで書いてしまった感じ。
ウィキペディアに三島が語る執筆の動機が載ってゐた。(こちら)
僕はあの小説はね、何もムキになつて書いた小説ではないんですがね。シャレタ小説を書きたいと思つてゐたんでね。だけど日本ではああいふ、ただシャレタ小説を書かうといふんでは、たちまちやられるわけで――つまり、「金閣寺」とくらべてどうだとか、かうだとか。しかし、僕はまあさういふ意味でとても一生懸命書いたんです。ただ、意図とか主題とかさういふものはたいしたもんぢやない。
「三島由紀夫渡米みやげ話―『朝の訪問』から」
実際、この小説は人間精神の深淵さみたいな大げさなものを描いてゐない。少なくともぼくは読み取れなかった。ただシャレタ小説。高級なワイドショーくらいの感覚だった。ワイドショーというと安っぽくなるけれど、やたら高級でむやみにシャレてゐる。
そこが面白い。
まづ、冒頭が最高。
いきなり慎しみのない話題からはじめることはどうかと思うわれるが、倉越夫人はまだ二十八歳でありながら、まことの官能の天賦 にめぐまれていた。非常に躾のきびしい、門地の高い家に育って、節子は探究心や理論や洒脱な会話や文学や、そういう官能の代りになるものと一切無縁であったので、ゆくゆくはただ素直にきまじめに、官能の海に漂うように宿命づけられていた、と云ったほうがよい。こういう婦人に愛された男こそ仕合せである。
節子の実家の藤井家の人たちは、ウィットを持たない上品な一族であった。多忙な家長が留守がちで、女たちが優勢な一家では、笑い声はしじゅうさざめいているけれども、ウィットはますます稀薄になる傾きがある。とりわけ上品な家庭であればそうである。節子は子供のころから、偽善というものに馴らされて、それが悪いものであるとは夢にも思わにようになっていたが、これは別段彼女の罪ではない。
しかし、音楽や服装の趣味については、節子はこんな環境のおかげで、まことに洗練されていた。会話には機智が欠けていたが、やさしく乾いた、口の中で回転するようなその会話の、一定のスピード、一定の言葉づかいを聞けば、耳のある人なら、電話だけでも、節子の育ちのよさを察しただろう。それは成上り者がどんなに真似ようとしても真似られぬ、一定の階級の特徴を堅固にあらわしていた。
現代においては、何の野心も持たぬということだけで、すでに優雅と呼んでもよかろうから、節子は優雅であった。女にとって優雅であることは、立派に美の代用をなすものである。なぜなら男が憧れるのは、裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女のほうであるから。
最高。
すげえ、あけすけにえげつないことを書いてるようだけれど、洒脱で品があるんだよなあ。
あと、余裕だな。余裕が気持ちいいんだな。
それにしてもなんという説明力の高さだろうか。
説明力で驚いたのは、悩める節子が「人生の達人」みたいな爺さんに会いにいく場面があるのだけれど、この爺さんの模写がふるってゐる。
彼女はまじめな旧友を思いだし、この悩み多い友が、しばしば悩みを打明けにゆくという年老いた人の名を思い出した。松木というその老人は人に知られぬ著述を重ね、ずっと以前から東京近郊の不便な土地に隠棲して、老婢一人を相手に仙人じみた生活を送っていたが、若いころは十数年にわたって欧米を放浪し、さまざまな国の裏面に通じていた。そのころ松木は政治にも関係した。やがて政治を見捨てた。世界各国のあらゆる女をも知った。やがて女を見捨てた。文学や美術や音楽にも近づいたが、芸術一般の虚偽の性質に呆れ果ててそれをも見捨てた。このごろでは著述からも遠ざかって、しらぬ間にたまっていた財産でつつましく暮していた。
彼は行為の世界にさえ通じていた!南支那海の海賊船に乗組んでいたこともあり、密輸にたずさわったこともあり、危険な奥地探検に加わったこともあり、牢獄と死をくぐり抜けて来たことが一再ではなかった。しかも松木は、今ではどんな偉大な行為をさえ蔑んでいた。
ここ、三島も絶対笑って書いてるでしょ。リズムがいい。
しかしどんなジジイやねん。
「さまざまな国の裏面に通じていた」とか、テキトーすぎて超オモロイ。
凄い技術でテキトーな修辞を連ねるという文豪のギャグ。
あと節子の旦那も完全にギャグ担当でした。
例えば、まさにその日、愛人と寝る妻に見送られる場面。
果して、その朝に限って門まで送って出た節子に、振向いた倉越一郎は、五月の朝そのもののような、又いわば、試合に勝った瞬間の野球選手のような、とてつもない明るい笑顔を妻へ向けた。
三島、いぢわる。
そして、妻の浮気に気づかず寝てばかりゐるという模写。
良人はあいかわらず遅くかえって来てすぐ寝息を立てた。再三妻に拒まれてから、彼は得たり賢しと、何も求めない良人になった。決して狡さを表現できないこの男が、妻のかたわらでいつも見せているのは、誠意に溢れたとしか云いようのないその寝顔である。
この男、ほんとに寝てばかりなのだ。
とうとうこの人には知られずにすべてが片附いた。もう決してこの人の存在が気にかかることはあるまい。・・・・・そう思うと、節子には自分が、かつて良人の懐ろへかえるについて心配した、そんな心配が滑稽に思われた。良人がこの朝ほど無害で稀薄な存在に見えたことはなかった。
「ゆうべはかえりが遅かったんだね。僕は先に眠ってしまったよ」と彼は言った。
『私にとって一等大切な瞬間には、この人はいつも眠っていてくれるんだわ』と節子は感謝を以て考えた。『これからは私も眠れる。ともかく眠らなくては!』
旦那・・・
大いに笑わせてもらったし、気の利いた警句がたくさんで、もう大満足。
楽しい時間だった。
以下に、グっときた文章をメモしておく。
「かれらの体は、朝早く、又しても不器用に結びついた。この人気のないホテルの一室に在りながら、まるで混んだ電車で体がぶつかり合うようにして。」
「節子は思うのであった。美徳はあれほど人を孤独にするのに、不道徳は人を同朋のように仲良くさせると。」
「一つの峠を越すと、恋も亦、一つの家を見つけるようになる。感情の家庭が営まれる。会わずにいるあいだのお互いの動静は何も問わずに、一つの透明な、目に見えぬ家に、あいびきのたびに住むようになる。」
「夫婦はエア・コンディショニングのある店で食事をした。するとこの人口的な涼しさは、感情の真空状態によく似合い、節子は自分の言っていることが、誰か他人の口真似にすぎない空々しさを忘れた。」
「この男には独特の芸当があった。何か具合のわるい局面にぶつかるとき、忽ちにして、投げやりな態度の一人の少年に化けることができるのだ。」
「苦痛の明晰さには、何か魂に有益なものがある、どんな思想でも、またどんな感覚も、烈しい苦痛ほどの明晰さに達することはできない。よかれあしかれ、それは世界を直視させる。」