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2016年参院選 問われなかった違憲立法ー時間がたてば国民は忘れるー

第24回参議院議員通常選挙 2016年7月10日 

投票率:54.70% 

自民党のキャッチコピーは「この道を。力強く、前へ。」 

民進党のキャッチコピーは「人からはじまる経済再生」

Japanese House of Councillors election, 2016 ja.svg出典:wikipedia 

参議院議員定数242人の半数、121議席が改選対象の選挙。自民党56議席公明党14議席獲得。非改選議員と合わせると与党の議席数は改選前から11議席増えて146議席となり過半数を維持した。 

野党は統一候補を擁立し、改憲勢力憲法改正の発議に必要な3分の2の議席を取ることを阻止する方針を掲げた。が、結果として自民・公明におおさか維新の会などを加えた改憲勢力が3分の2の議席を獲得することになった。 

安倍首相が政権復帰以来、国民に浴びせつづけてきた呪文、「あの暗く、混迷した時代に後戻りさせる訳にはいきません。」「この道しかないんです。」は相当数の国民に効いた。

ことにあまり政治に関心のない人達には大きな効果があったように思う。 

おそらくこれにより、野党に対する、とりわけ民進党民主党)に対するネガティブイメージは回復不能なほどに決定的なものとなった。そしてメディアがそれに加担した。 

客観的な報道、公平中立な報道を表面上つくろいながら、その実、政権批判を控えることで、結果として支持するのと同じになるというタイプの報道が増えた。 

「野党は反発した/責め手を欠いた」「議論は噛み合わなかった」というのがそれだ。政治をすべて与党対野党の政局的な視点からとらえ、そのパワーゲームとして観察する「お手並み拝見」的な態度。この種の理非をかえりみない傍観者的な客観報道が安倍政権の暴走を影で支えてゐる。 

しかし本来ジャーナリズムがすべきは、政局の勝った負けたを「霞ヶ関」や「永田町」の権力闘争という観点から語ることではなく、それが社会全体にとって、国民全部にとってどういう影響があるかを問うことだろう。 

安倍政権下ではそうした「社会の木鐸」としての報道姿勢が急激に失われたように感じる。事実、報道の自由度は安倍政権に入って以降、急降下してゐる。 

ただ、この参院選で野党側が採用した、改憲をさせないために「3分の2の議席をとらせない」という目標設定は極めて消極的であり、魅力を欠いてゐたことも疑いようのない事実である。 

選挙の争点について、安倍首相は6月1日の会見で以下のように述べた。 

他方、足元では新興国や途上国の経済が落ち込んでおり、世界経済が大きなリスクに直面している。こうした認識を先般、伊勢志摩サミットに集まった世界のリーダーたちと共有しました。 

先般の熊本地震では、熊本や大分の観光業や農業、製造業など、九州の広い範囲にわたって経済や暮らしが打撃を受けています。 

これらが、日本経済にとって新たな下振れリスクとなっている。最悪の場合、再び、デフレの長いトンネルへと逆戻りするリスクがあります。 

今こそアベノミクスのエンジンを最大にふかし、こうしたリスクを振り払う。一気呵成に抜け出すためには「脱出速度」を最大限まで上げなければなりません。 

アベノミクスをもっと加速するのか、それとも後戻りするのか。これが来る参議院選挙の最大の争点であります。 

伊勢志摩で取りまとめた合意を議長国として率先して実行に移す決意であります。アベノミクス「三本の矢」をもう一度、力一杯放つため、総合的かつ大胆な経済対策をこの秋、講じる考えです。 

(中略) 

1年半前、衆議院を解散するに当たって、正にこの場所で、私は消費税率の10%への引上げについて、再び延期することはないとはっきりと断言いたしました。リーマンショック級や大震災級の事態が発生しない限り、予定どおり来年4月から10%に引き上げると、繰り返しお約束してまいりました。 

世界経済は今、大きなリスクに直面しています。しかし、率直に申し上げて、現時点でリーマンショック級の事態は発生していない。それが事実であります。 

熊本地震を「大震災級」だとして、再延期の理由にするつもりも、もちろんありません。そうした政治利用は、ひたすら復興に向かって頑張っておられる被災者の皆さんに大変失礼なことであります。 

ですから今回、「再延期する」という私の判断は、これまでのお約束とは異なる「新しい判断」であります。「公約違反ではないか」との御批判があることも真摯に受け止めています。 

(中略) 

4年前の総選挙、3年前の参議院選挙、1年半前の総選挙、国民の皆様から大きな力をいただいて、アベノミクスを加速することができました。 

その結果、世の中の雰囲気は確かに皆さん、大きく変わった。大きく変わったことは事実であります。まだまだ道半ばではありますが、雇用は確実に増え、所得も確実に上がっています。 

この道を力強く前に進んでいこうではありませんか。4年前のあの低迷した時代に後戻りさせてはなりません。 

世界経済がリスクに直面する今、ロケットが大気圏から脱出する時のように、アベノミクスのエンジンを最大限にふかさなければなりません。デフレからの「脱出速度」を更に上げていかなければなりません。

まづ、この「新しい判断」という用語の由来を述べておこう。 

前回の国政選挙、即ち2014年の衆院選は首相によれば「アベノミクス解散」だった。

「景気が回復してゐないから、2015年10月に予定されてゐる消費税の10%への引き上げを2017年4月の延期する」、それを国民に問う。そのために衆議院を唐突に解散したのだった。 

そして、今度は「まだ景気が回復してゐないから、2017年4月に延期した10%への引き上げを、さらに2年半、つまり2019年の10月まで延期する」と宣言。

上の引用にもあるように、首相は「再延期はない」と自信たっぷりに何度も語ってゐた。ところが景気がよくならないので、また消費税引き上げを延期するというのだ。 

要するにアベノミクスが初期の効果をあげてゐないということなのだが、「わたしの見立てが間違ってました」とは言いたくないから、首相は5月の伊勢志摩サミットにおいてたいへん見苦しい行いをした。 

首相はかねてから「リーマンショック級や大震災級の事態が発生しない限り、予定どおり引き上げる」と言ってきた。だから、現在が「リーマンショック級である」ということにしてしまえば、間違いを認めなくてすむわけだ。そこで首相はサミットの会議で「現在の状況はリーマンショック前に似てゐる」と訴えた。 

ところが、各国首脳からの同意は得られなかった。ドイツのメルケル首相からは「世界経済はそこそこ順調に成長してゐる」との反論がなされたようだ。報道を徴する限りはそういう流れだ。つまり、安倍首相の目論見はあっけなく潰えてしまったのだ。 

そして首相はサミット終了後に「私がリーマンショック前の状況に似ているとの認識を示したとの報道があるが、まったくの誤りである」と発言し、国民を唖然とさせたのだった。書いてゐるこっちが恥ずかしくなるほど幼稚だ。 

こうしたグダグダの最後に出てきたのが、「これまでのお約束と異なる“新しい判断”」という珍妙な言い回しだ。

はじめから「経済指標の動向を見て総合的に判断します」と言っておけばいいのに、「断固としたもの言い」をすることに固執して「再延期はない」と断言するからこういう妙な新語を生み出すことになる。 

失敗を認められないから、それを誤魔化すために別の言葉をあてはめる。それで体裁はとれるかもしれないが、本質的には言葉と現実との結びつきを壊すことを意味する。それは言葉と現実両方への攻撃であり、国民の現実認知力を大きく損ねる行為だ。 

2015年10月に予定されてゐた2%の増税を4年も延期せねばならないというのだから、どう考えても「アベノミクス」は失敗なのだが、首相によれば失敗ではなくてエンジンのふかし方が足りないらしい。

だから「ロケットが大気圏から脱出する時のように、アベノミクスのエンジンを最大限にふかさなければなりません。」という。 

アベノミクスと言えば「三本の矢」であり、これがエンジンなのだと思うが、おそらく首相も国民も忘れてゐるであろう「新・三本の矢」というものがあった。

これは2015年9月、安倍首相が自民党総裁の無投票再選を決めた、その会見において「一億総活躍社会」とともに打ち出したものだ。(こちら) 

いわば『ニッポン「一億総活躍」プラン』を作り、2020年に向けて、その実現に全力を尽くす決意です。 

そのために、新しい「三本の矢」を放ちます。 

第一の矢、『希望を生み出す強い経済』。 
第二の矢、『夢をつむぐ子育て支援』。 
第三の矢、『安心につながる社会保障』。 

希望と、夢と、安心のための、「新・三本の矢」であります。 

この「新・三本の矢」はいかにもキャッチフレーズ風に発表されたものだったが、しばらくするとまったく聞かれなくなってしまった。 

では「新・三本の矢」はどこへ行ったかというと、これは評判が悪かったためにいつのまにか無かったことにされたようだ。 

というのも、新に対する「旧・三本の矢」である「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」と比べれば明らかなように、「新・三本の矢」と名づけられた「希望を生み出す強い経済」「夢をつむぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」は、具体的な政策というよりは目標と呼ぶべきものであり、「矢」ではなく「的」であるからだ。 

先に引用した6月1日の演説に「アベノミクス“三本の矢”をもう一度、力一杯放つため、総合的かつ大胆な経済対策をこの秋、講じる考えです。」との言葉があるが、ここで「新・三本の矢」という言い方をしてゐないのは、批判を受けて「的」を放つことは出来ないということに気がついたからだろう。 

この国の経済政策は「矢」と「的」の違いがわからない人たちによって立案されてゐるのだ。 

さて、ここまでお読みいただいた方はみんなウンザリしてゐると思う。

消費税増税を「延期する」→「延期はない」→「新しい判断」というグダグダ。

リーマンショック前に似てゐる」発言のくだらなさ。

「的」と「矢」の概念が混乱してゐる「三本の矢」。どれをとっても関わりたくないレベルに低劣だ。 

先の見通しもないままに思いつきでものを言って、その後はつじつま合わせと、体裁を整えるための詭弁とが大量に生み出される。 

本来ならばジャーナリズムがことばの使いかたを正し、国民の良心がそれを支援しなくてはいけないはずだが、どうやら今の日本人は良心よりも権威(体裁)を重んじる傾向があるようだ。

体裁さへ整ってゐれば内実はどうでもいいらしい。 

そのため安倍政権がどれだけ国民に不誠実な態度をとっても、いつのまにかうやむやになり、落ちてゐた支持率もジリジリ回復する。

当然の結果として、国民はもっとナメられるようになる。 

阿呆らしい詭弁にかかかづらってゐるあいだに、本当に大事なことは置き去りにされ、ずるずるずると、社会が壊れていく。  

アベノミクスをもっと加速するのか、それとも後戻りするのか。これが来る参議院選挙の最大の争点であります。」 

首相はそう言った。

選挙の争点はいつから首相が勝手に決めていいことになったのだろう。いつから国民は首相の与えた枠組みでしかものを考えないようになったのだろう。 

この選挙で問われるべきは「アベノミクスを加速するかどうか」ではなかったはずだ。

この時点で安倍政権はすでに3年半の実績があった。短いとは言えない。とすれば、「首相が何を言ってゐるか」ではなく「この政権が実際に何をしてきたか」を問わねばならかった。 

この観点から言えば、本当に争点になるべきであったのは前年(2015年)の夏に成立した違憲立法、すなわち「安全保障関連法」の内容と成立過程だった。この法案の成立は「法学的にはクーデター」と呼ぶ憲法学者がゐるほどの大事件だった。

これにより安倍政権は日本国憲法のもとにある法秩序に対して致命的な打撃を与えた。 

安倍首相とその周辺の人達は、日本が他国から「ナメられてゐる」と考えてゐる。

中国船が尖閣付近をうろついたり、竹島を韓国に実行支配されてゐたり、北朝鮮がミサイルを日本海に落としたりするのは、憲法9条があるために戦争が禁止されており、「専守防衛」というお花畑的な発想で安全保障を行ってゐるからだ。誇りある日本を取り戻すためには憲法9条を改正して「戦争ができる普通の国」にする必要がある。 

具体的には「集団的自衛権」を行使できるようにして、自衛隊が米国の戦争を手伝えるようにしたい(一体化、切れ目のない防衛)。それができるようになれば抑止力が向上して中国や北朝鮮にこちらからも威嚇できるようになる。 

こういう考えだ。

安倍政権とその支持者の考えでは「安全保障=抑止力=米国との一体化」であり、アジア諸国と友好関係・信頼関係を築くことで緊張を緩和するという発想はない。

なぜなら日本がアジア諸国と真の信頼関係を築くためには過去の歴史と向き合うことが絶対に必要だが、彼らにとって過去の歴史と向き合うことは「反日」的だからだ。

その結果、「安全保障=米国との一体化」以外の選択肢がまるでなくなってしまう。 

「戦争ができる普通の国」になるためには憲法9条を変える必要がある。ところが国民の過半は憲法9条を変えたくないと思ってゐる。だから9条改正は無理だと判断した安倍政権は、憲法解釈を変更することで、実質的に日本国憲法を破壊することにしたのだった。  

以下、憲法学者・長谷部恭男氏の編になる「検証・安保法案 どこが憲法違反か」及び「安保法制から考える憲法立憲主義・民主主義」の二冊によりかかって書くことにする。 

2014年7月1日、 安倍内閣は「集団的自衛権の行使容認」を閣議決定した。 

従来、日本政府は、憲法9条のもとで武力行使が容認されるのは個別的自衛権の行使、すなわち日本に対する急迫不正の侵害がある場合に限られるとの立場をとってきた。1954年の自衛隊創設以来、歴代政府はこの解釈を踏襲してきた。集団的自衛権の行使は典型的な違憲行為であって、憲法9条を解釈することなくして不可能であることも、政府はくりかえし説明してきた。 

しかし安倍政権はこの法的連続性と秩序を、国民になんの説明もなく閣議決定により変更してしまった。これは政府による法秩序への攻撃だった。  

閣議決定に言う。 

「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国 と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国 の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を 全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度 の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛 のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに到った。」 

長谷部氏はこの閣議決定が論理的に筋のとおらないものであることを、以下のとおり明確に指摘してゐる。 

これは、個別的自衛権の行使のみが憲法上、認められるとの従来の政府見解の論拠に基づいて、集団的自衛権の行使が限定的に認められるかのように見せかけようとするものである。しかし、自国を防衛するための個別的自衛権と、他国を防衛するための集団的自衛権とは、全く本質を異としており、前者のみが許されるとするその論拠が、後者の行使を容認するための論拠となるはずがない。 「検証・安保法案 どこが憲法違反か」序論 

つまりこの閣議決定は「屁理屈」なのだ。 

安倍政権は日本国憲法とその解釈70年の歴史からなる法秩序に「屁理屈」をぶちこむことで、集団的自衛権の行使を可能にしたのだった。 

そしてこの屁理屈を核心部分として具体化されたものが2015年9月に成立した「安全保障関連法」である。 

そもそもの動機が「戦争できる国にしたい」という漠然とした願いであるから、彼らが持ち出してくる立法事実(立法の根拠となる事実・その法律が必要な理由)は極めてアイマイなものだった。 

政府は始め「ホルムズ海峡での機雷掃海」を例にあげた。

原油を運ぶ輸送ルートが機雷で遮断されると日本の「存立危機」だからだという。ところが野党からの厳しい質問にあい、説得力のある答弁ができなくなった安倍首相は、ついに「今現在の国際情勢に照らせば、現実の問題として発生することを具体的に想定してゐるものではありません」と答弁。

この例が立法の根拠とならないことを認めた。 

もう一つ出してきた例が「邦人輸送中の米輸送艦の防護」だった。日本国民が米国の軍艦に乗ってゐる状況で、自衛隊がそれを守れるようにするのだと。

ところが、こちらも中谷防衛大臣が「邦人が乗ってゐるか乗ってゐないかは絶対的なものではない」と述べ、邦人の保護が行使の理由とならないことを認めた。

さらに、何が存立危機事態の認定理由になるかについては「総合的に判断する」とし、「邦人保護」という理由が情緒に訴えるための道具立てに過ぎなかったことが明らかとなった。 

つまりこの法律には立法事実がないのである。 

憲法学者の木村草太氏はこれについて以下のように述べてゐる。 

 今回の安保法制は、そもそも、「この法律を変えて、具体的に何々を始めます」の「何々」という立法事実が全くはっきりしていない。ただ漠然と、安全保障環境が変わった、と繰り返すだけです。いったいどういう場合に何をしたいのかと聞いても、はっきりした答えは返ってこない。そういう意味では、今回、憲法改憲論議が高まったのは、過去の改憲論議とは性格が違う印象を受けます。 

 今回の動きは、安倍首相の人格に加えて、外務省を中心とした実務家たちの要望が全部乗っかったものが、あの法案として上がってきて、それがたまたま通るような政治状況だったと見るほうがよいのではないかと思います。結局、安倍首相に、集団的自衛権に踏み込みたいという抽象的な観念だけがあって、実際に動いたものは、またそれとは違う、非常に官僚主義的な法案だったと見るのが正しいのではないかと思います。 「安保法制から考える憲法立憲主義・民主主義」14項 

立法事実がなく、明らかに違憲である法律を安倍政権は数の論理で通した。安倍政権はそれが出来るということを証明した。これは無理が通って道理が引っ込む社会、屁理屈が通って理屈が引っ込む社会への移行を意味してゐる。

法治から人治への転換だ。 

審議の際、国会前をはじめ各所で反対デモが行われた。そこで政権筋から出てきたのは「成立すれば国民は忘れる」という言葉だった。そして実際にそのとおりになった。

「決まったことには黙って従う」という「善良な」国民性を安倍政権は巧みに利用してゐる。 

国民は忘れ、翌2016年の選挙でも政権与党に同様の議席を与えた。「同じことをしてもいい」という許可を国民が与えたのだ。とすれば、政府は「何をやってもいい」と思わないはずがない。こうして法治が壊され、国会が無効化され、日本国の安倍ムラ化が進行する。 

長谷部氏の激烈な言葉を引用して、この長い選挙総括を終わりにする。 

憲法の基本原理が変更されたときも、国家は死ぬ。別の新たな約束ごとがそこに立ち現れる。そして今、日本の憲法の原理、つまり立憲主義に対して攻撃を加え、日本という国を殺そうとしているのが安倍政権である。石川健治教授が、7.1閣議決定以降の一連の政府の動きを指して「クーデター」と形容しているのは誇張ではない。日本という国家体制の最悪の敵は安倍政権である。  「安保法制から考える憲法立憲主義・民主主義」98項