手探り、手作り

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「RRR」

「RRR」2022 インド 監督:S・S・ラージャマウリ 

出演:N・T・ラーマ・ラオ・ジュニア、ラーム・チャラン、アーリヤー・バット 他

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ラージャマウリ監督の撮る決め絵とスローモーションのかっこよさは異常。しかもそれがただ動きとしてかっこいいだけではなく、感情の高まりと物語の流れと完全に一致してゐるため、感覚的な興奮ではなく、情動ぜんぶ、肚の底からどーんともっていかれる感じがある。

インド近現代史について無知すぎて詳細はよくわからないが、エンドロールでどうやら建国の英雄らしき人々の顔絵が映し出され、踊ってゐる登場人物達と共演を果たす。インド人が力を合わせて大英帝国インド総督をやっつけるという映画の内容と歴史上の国士を重ねてゐるわけで、かなり露骨なプロパガンダである。

このプロパガンダがどういう効果をもつのか、どのような一体感と抑圧をうむ種類のものであるのかは、上記のとおりぼくがインドについて無知すぎてさっぱりわからない。ただ言えるのはラージャマウリ監督の演出が凄すぎるため、この高揚に抵抗することはむづかしいということ。そういう意味で圧倒的な興奮に怖さを感じた。

同じモチーフを別の状況(人、場所、時間)で二度登場させるという反復技法を脚本、アクション、小道具で徹底的につかってゐる。手をつなぐ、肩車をする、ペンダント、二日後に絞首刑→脱出、弾丸のコスト、「装填、狙え、撃て」、などなど。別の状況で別の意味を与えられて反復される。初見で気づかない、意識にのぼらないところにもたくさん散りばめられてゐるはずだ。

この反復の快は最近多い「伏線回収がすごい!」というのとはまるで異質であるように思う。あれは実はこうでしたというのがわかってスッキリするだけであって、映画的快楽にとって本質的なものではないような気がする。ラージャマウリ的快のほうがよほど強度をもってゐる。とにかく、あらがえない。

反復をつくりだすために物語において明快な二項対立を設定してゐる。第一に大英帝国VSインドという対立構造、第二にインテリ愛国マッチョ(ラーマ)VS野性的愛国マッチョ(ビーム)という対立構造。第二の対立構造を友情によって乗り越え、第一の対立構造(本当の敵)を叩くというのが物語の骨格だ。

インテリ愛国マッチョは学問があり英語も出来る。闇雲に反抗するだけでは大英帝国を追い出すことが出来ないことを知ってゐる。だから大英帝国側の警察組織の一員となり、帝国の手管を理解し、武器を獲得したうえでの抵抗運動が必要だと考えてゐる。

他方の野性的愛国マッチョはそんな事情には想像が及ばない、文字の読み書きもできない設定になってゐる。しかし素朴な彼はインドの大地からくる霊的・超人的パワーをもってゐて、虎よりも強く、人望も厚い。

ふたりは会った瞬間(ちいさな男の子を助ける)から親友でありながら、第一の対立構造に絡めとられてゐるために、第二の対立構造をつくってしまってゐる。仲良く肩車して遊んだりしてゐても、第一の構造が前景化してくるとふたりは敵になってしまう。

この対立は、ふたりそれぞれが自己犠牲を払い(二日後に絞首刑)、こんどはちいさな女の子を助けることを通じて解消される。そしてふたりで力を合わせて悪辣なるインド総督をやっつける。ここで再び肩車をすることになるのだが、一度目はただのマッチョのいちゃいちゃだったのが、二度目は第二の構造が解消されて真の敵と対峙するふたつの愛国勢力の象徴という意味を帯びてゐる。

ふたりのマッチョの肩車というアホみたいな絵面を感涙必死のアゲアゲ名シーンに仕上げることが出来るのだから物凄い演出力だ。肩車で下になるのが野性的愛国マッチョで上になるのがインテリ愛国マッチョであるというのも実にシンボリック。

インテリは素朴な民衆に嫌われがちだが、本作では彼がラーマというインド神話の英雄の名をもち、獄中でバガヴァット・ギーターの一節(あなたの職務は行為そのものにある。決して結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない)を唱えて自己を奮い立たせる場面を入れることで、インテリの側にも霊性を与え、かつ担わせるようにしてゐる。

最後の場面でビームがラーマに「まづ読み書きを教えてくれ」と言う。学問は大事であり、知識層と民衆が反目し合ってゐてはいけないというメッセージはとても健全と感じた。

ひとつ残念なのは女性の活躍が少なかったことだ。美しいインド女性が楽しい/優雅なダンスを踊るシーンが見たかった。エンディングではラーマの恋人シータ役のアーリヤー・バットさんが踊ってゐた。素晴らしと思った。

彼女のダンスを本編でも見たかった。