<本書を執筆する全課程は、自らの「日本語の近代」をめぐる既得権益を解体しつづける営みとなった。>
と「あとがき」にある。
「国語」とのしての「日本語」は自明の存在ではなく、日本が近代国家として出発する際に必要とされて「つくられた」もの、「歴史的構築物」である。
そのような「日本語」が明治初期に形成される際に、どのような幻想が必要とされ、何が失われ、どのような「既得権益」がうまれたのか。
そして、われわれは、その幻想や「既得権益」に無自覚でありすぎないか、ナイーブによりかかりすぎてゐないか。
こうした問題意識によって書かれた本で、内容はかなり濃い。
「既得権益を解体」しつづける作業につきあってゐると、こちらの足元もゆらいでくるような感覚を覚える。
「あとがき」によれば、本書の大半は、
の四つの著作の引用と要約から書かれてをり、
- 酒井直樹『死産される日本語・日本人 「日本」の歴史-地政的配置』
に理論的な枠組みの多くを依拠してゐるとのこと。
深く関心をもってゐる分野なので、これらの書物もぜひ読みたいと思う。
「近代の日本語」を猛烈に批判してゐるので、読んでゐると「ぢゃあ、どうすりゃいいのよ」と言いたくなる人もあるかもしれないが、もちろん答えはないのである。
だからといって、単一で、正しく、美しい 「日本語」を、いまから生産すべきだ、ということを主張したいのではない。「日本人」や「日本」居住者に限定されることのない、それぞれの「日本語」使用者が、一人一人の現場で、自らの「日本語」を生み出すために格闘することだけが重要なのである。その闘争の自由を妨害するものたちとは、争いつづけるしかない。 306頁
どんな問題であっても、「どうすりゃいいの?」という問いに対して、答えがあるとすれば、それは常に、
「めいめいで考えて、めいめいが一人で格闘するほかない」
というものだ。
ぼくが国語改革に納得できず、奇妙な仮名づかいで書いてゐるのは、自らの「日本語」を生み出すための格闘のつもりだ。
それで何になるのかと言われたら、知らんがな、と答えるほかない。