手探り、手作り

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「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル

それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル 春秋社 1993

 

ナチス強制収容所で三年間を過ごした精神科医フランクルが1946年に行った講演。

フランクルタゴールの次の詩を引用し、「人間は楽しみのために生きてゐるのではない、生きることは義務である」という。

私は眠り夢見る、

生きることがよろこびだったらと。

私は目覚め気づく、

生きることは義務だと。

私は働くーーすると、ごらん、

義務はよろこびだった。

生きることは義務であり、たったひとつの重大な責務である。人生にはよろこびはあるが、よろこびそのものを「欲する」ことはできない。よろこびはおのづから湧くものであり、幸せは結果にすぎない。

そして「人生の問いのコペルニクス的転回」を提出する。

(・・・)私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。 

 こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。どのような未来もこわくはありません。未来がないように思われても、こわくはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつでまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、どんな未来が私たちを待ちうけているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。 27-28頁

 「現在がすべて」である。

一般化された「人生の価値」や「生きる意味」などというものはない、その瞬間瞬間に、自分がおかれてゐる具体的な状況にどのように対するか、それだけだ。

具体的な「ここ」と「いま」において、問いと向きあわなければならない。

「ここ」と「いま」においてなされる問いは、あなた固有のものだ。それに答えられるのはあなた一人だけだ。ここにおいて一人の人間の「代替不可能性」を見出すことができる。

(・・・)なにをして暮らしているか、どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけなのです。各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代替不可能なのです。だれもがそうです。各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められているのです。 32頁。

「ここ」と「いま」においてなされる問いを「運命」と呼ぶことができる。この「運命」に応じることが自分の責任であり、人生の意味である。

では、その運命そのもの、世界そのものに意味はあるのか。無意味であるとも、意味を超えた意味(超意味)があるとも、どちらとも言いうる。どちらとも論理的に正当であり、不当である。

フランクルは、「超意味」を信じることができるという。

信じることを真実のことにするのだと。

(無意味か、有意味について)人間は、もう論理的な法則からこの決断を下すことができません。ただ自分自身の存在の深みから、その決断を下すことができるのです。どちらを選ぶかを決断することができるのです。

 ただ一つのことははっきりしています。究極の意味、存在の超意味を信じようと決断すると、その創造的な結果があらわれてくるでしょう。信じるということはいつもそうなのです。信じるというのは、ただ、「それが」真実だと信じるということではありません。それ以上、ずっとそれ以上です。信じることを、真実のことにするのです。というわけで、一方の考え方の可能性を手に入れるということは、たんに一つの考え方の可能性を選ぶことではないのです。たんに考え方の可能性にすぎないものを実現することなのです。 112-113頁

生きることは義務であり、個々人がそれぞれに人生からの問いに答え続ける責任がある。

責任ということばはしばしばぼくたちを責め立て、苦しめる。

しかし、この責任というものを直視したとき、人は、その測り知れなさに気づくことになる。

 おそろしいのは、瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任があることを知ることです。ほんのささいな決断でも、きわめて大きな決断でも、すべて永遠の意味がある決断なのです。瞬間ごとに、一つの可能性を、つまりその一つの瞬間の可能性を実現するか失うかするのです。さて、その瞬間その瞬間には、何千もの可能性があるのに、そのうちのたった一つの可能性を選んで実現するしかありません。しかし、一つの可能性を選ぶというだけでもう、いわば他のすべての可能性に対して、存在しないという選択を下すことになるのです。しかもそれらの可能性は「永遠に」存在しないことになるのです。

 それでもすばらしいのは、将来、つまり私自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。私の決断によって実現したこと、さっきいったように私が日常の中で「起こした」ことは、私が救い出すことによって現実のものになり、つゆと消えてしまわずにすんだものなのです。 160-161頁

人生の責任はおそろしいものであり、同時にすばらしいものである。

人はどのような困難な状況にあっても、責任を担い、人生を肯定することができる。

人生にイエスということができる。