手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り🌴

「職業としての小説家」村上春樹

職業としての小説家村上春樹 スイッチング・パブリッシング 2015 

「走ることについて語るときに僕の語ること」に似て、村上春樹の小説論であり、「どうやって才能を最大限に開花させるか」論。すごく面白い。

こんなの。

 これはあくまで僕の個人的な意見ですが、もしあなたが何かを自由に表現したいと望んでいるなら、「自分が何を求めているか?」 というよりはむしろ「何かを求めていない自分とはそもそもどんなものか?」ということを、そのような姿を、頭の中でヴィジュアライズしてみるといいかもしれません。「自分が何を求めているか?」という問題をまっすぐ追及していくと、話は避けがたく重くなります。そして多くの場合、話が重くなればなるほど、自由さは遠のき、フットワークが鈍くなれば、文章はその勢いを失っていきます。勢いのない文章は人をーーあるいは自分自身をもーー惹きつけることができません。

 それに比べると「何かを求めていない自分」というのは蝶のように軽く、ふわふわと自由なものです。手を開いて、その蝶を、自由に飛ばせてやればいいのです。そうすれば文章ものびのびしてきます。考えてみれば、とくに自己表現なんかしなくたって人は普通に、当たり前に生きています。しかし、にもかかわらず、あなたは何かを表現したいと願う。そういう「にもかかわらず」という自然な文脈の中で、僕らは意外に自分の本来の姿を目にするかもしれません。 102頁

 ここで僕が言いたいのは、どんな文章だって必ず改良の余地はあるということです。本人がどんなに「よくできた」「完璧だ」と思っても、もっとよくなる可能性はそこにあるのです。だから僕は書き直しの段階においては、プライドや自負心みたいなものはできるだけ捨て去り、頭の火照りを適度に冷やすように心がけます。ただ火照りを冷やしすぎると、書き直しそのものができなくなるので、そのへんはある程度注意しなくてはなりませんが。そして外から批判に耐えられる態勢を作っていきます。何か面白くないことを言われても、できるだけ我慢してぐっと呑み込むようにする。

(・・・)

 つまり大事なのは、書き直すという行為そのものなのです。作家が「ここをもっとうまく書き直してやろう」と決意して机の前に腰を据え、文章に手を入れる、そういう姿勢そのものが何より重要な意味を持ちます。それに比べれば「どのように書き直すか」という方向性なんて、むしろ二次的なものかもしれません。多くの場合、作家の本能や直感は、論理性の中からではなく、決意の中からより有効に引き出されます。藪を棒で叩いて、中に潜んでいる鳥を飛び立たせるようなものです。どんな棒で叩こうが、どんな叩き方をしようが、結果にたいした違いはありません。とにかく鳥を飛び立たせれば、それでいいのです。鳥たちの動きのダイナミズムが、固定に向かおうとする視野に揺さぶりをかけます。それが僕の意見です。まあ、かなり乱暴な意見かもしれませんが。 150-152頁