手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「最終講義」内田樹

最終講義内田樹 文春文庫 2015

内田先生のブログは全部読んでゐる。著作もたくさん読んでゐる。

だから聞いたことのある話が多いのだけれど、やっぱり感動しちゃう。だからまた読むことになる。読者への「愛」を感じて、ほっこりする。励まされて生きる力が湧いてくる。知性が活性化して興奮する。

ことばの力がとんでもなくすごい。

「最終講義」も最高。

ヴォーリズの建築」の話は何度聞いてもいいなあ。

ヴォーリズは「校舎が人をつくる」と言いましたが、学びの比喩としてこれほど素晴らしいものはないと思います。好奇心をもって自ら扉を押し開けたものに報奨として与えらえるものが「広々とした風景」、それも「それ以外のどの場所からも観ることのできない眺望」なのです。 32頁

私たちの学びへの意欲がもっとも亢進するのは、これから学ぶことへの意味や価値がよくわからないけれども、それにもかかわらず何かに強く惹きつけられる状況においてです。かすかなシグナルに反応して、何かわからないけれども自分を強く惹きつけるものに対して、自分の身体を使って、自分の時間を使って、自分の感覚を信じて、身体を投じた人にだけ、個人的な贈り物が届けられる。おわかりでしょうが、これは「学びの比喩」であると同時に、「信仰の比喩」でもあるのです。 34頁

神戸女学院大学の標語「愛神愛隣」 について。

 この大学に迎えられて、神を愛することと隣人を愛することは、どちらか一方だけでは成り立たないと教えられたとき、思いがけなく僕自身のわずかな政治的経験から得た知見に通じるものをそこに感じました。「神を愛すること」、世界に自愛と正義をもたらしきたすこと。それは非常に総称的で、一般的なことです。今ここですぐに実現できることではない。でも、一方の「隣人を愛する」というのは今ここで、目の前で行うことができる。「隣人を愛する」というのは、隣人に自分の口からパンを与え、自分の服を脱いで着せかけ、自分の家の扉を叩いて自分の寝台を提供する。そういう具体的な営みを意味しています。比喩ではなくて、文字通りにそのようにふるまうことを求めている。そして、そのような具体的な営みの裏付けがない限り、神を愛するという行いは達成しない。自分自身の今ここでの生身の身体が実現できるところから自愛と正義をこの世界に積み増してゆく。永遠に実現されないかもしれないはるかな理想と、今ここで実践しなければならない具体的行為は表裏一体のものであり、一方抜きには他方も成り立ちがたいということを「愛神愛隣」という言葉は伝えているのだと僕は思います。 45-46頁

弱者支援、相互支援の仕組みのために「自我」の枠組みを解体すること。

自分の隣にいる人間が、ただ隣にいる人間ではなくて、自分の「同胞」というか、別の形をとった自分自身である。例えば、若い者からみれば「老人」というのは「いずれそうなるかもしれない自分」です。「幼児」というのは「かつてそうであった自分」です。老人も幼児も他者の支援がなくては生きていけない、栄養もとれないし、移動も出来ない。周りの支援がないと生きていけない。病人や障害者もそうです。それは「そうなったかもしれない自分」です。それを今健康で十分に活動的である「自分」が、「かつてそうであった自分」「将来そうなるであろう自分」「高い確率でそうなるかもしれない自分」を支援する。それは相互支援というよりむしろ「時間差を伴った自己支援」なのです。ある分岐点で違う道を選らんでいたら「こうなっていたかもしれない自分」、自分の可能性に対する支援なのです。こういうふうに考えるためには、別に人に抜きんでた倫理性や愛情深さなんか要らない。そんなもの求めるのはむしろ有害だと僕は思います。自分が他人の人たちよりもずっと人格的に高潔で、自愛の深い、例外的な善人であるという自己評価が強化されればされるほど、その人がそのへんでうろうろしている幼児や老人を見て「ああ、これは私だ」と思う可能性は減ずるからです。皮肉な話ですけれど、個人に向かって、「例外的に善良で、慈愛深い人になりなさい」と要求すればするほど、その要求に応えて自己形成を果せば果すほど、その人の自我の殻は硬いものになる。その人の他者との共感や同期の能力は低下する。「施す自分」と「施される他者」の間、強者と弱者の間の非対称性の壁がどんどん高く、分厚くなってゆく。

 相互支援というのは、それとはまったく逆の方向に向かうものです。「立派な人間」になることをめざすのではなく。こわばった「自我の枠組み」を解体するところからしか始まらない。大事なのは、個人の倫理観や社会的能力を高めるということではありません。そうではなくて、自我の枠組みをはずし、自我の壁の隙間からしみ出して行って、まわりの人たちとどこまでが自分でどこからが他者なのか、それが不分明になるような「中途半端」な領域をどこまで拡大できるか、そういう技術的な課題なんです。 313-315頁