手探り、手作り

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「大人のためのメディア論講義」石田英敬

大人のためのメディア論講義石田英敬 ちくま新書 2016

 

感想を書くために線を引いた箇所を読み返してゐたら、「思いつき」ってすごく本質的なことだということに気がついた。

「思いつき」というのは「ひらめき」であり、「ひらめき」というのは知性の跳躍のことだ。

ポンッと飛ぶ、それが知的に「面白い」ということだと思う。

石田氏の本にはそういう「ひらめき」がとても多い。

例えば次の箇所。

(・・・)中国では蒼頡という神話上の人物が漢字を発明したと言われています(図5-3)。この絵をよくご覧になれば分かると思いますが、蒼頡には目が二組ある。つまり四つ目の人です。これにかんしては諸説ありますが、私は中国の研究者には申し訳ないですが、勝手に次のように解釈しています。一対の目は自然を読み、もう一対の目は文字を読む目である。蒼頡は文字を発明したことにより、文字を読む目を新たに一対持った。中国の神話ではどう解釈されているか分かりませんが、おそらくこれが最も神経科学的な解釈だと思うからです。 198頁

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これが蒼頡だ!

ここでいう脳神経科学の知見とは次のようなものである。

人間の脳は自然界のなかにある事物の位置関係を、その見え方の特徴から見分ける識別能力をもってゐて、このシステムによって目に見えるモノの形や位置関係を識別してゐる。

これは生得的に獲得されるものである。

さて、文字というのは自然物ではない。人間がつくったものである。

世界には多種多様に複雑な文字が存在してゐるが、これを人間はどう認識してゐるか。

ある研究によれば、空間内の事物の識別システムが手掛かりとしてゐる見分け特徴と、およそあらゆる文字を構成してゐる要素との出現パターンは完全に対応してゐる。

すなわち、種々の文字システムは一見するとバラバラであるけれども、要素に分解すれば「みな同じ文字」ということになる。

そして人間は、自然界の特徴を見分けるためのシステムを、文字を見分けるという記号処理に転用して読字・読書を行ってゐるというのだ。

つまり生得的な「事物」の認識システムを、「文字」が読めるようにヴァージョンアップすることが、文字の習得というプロセスなのだ。

このような知見の上に、

「一対の目は自然を読み、もう一対の目は文字を読む目である。蒼頡は文字を発明したことにより、文字を読む目を新たに一対持った。」

という石田氏の「ひらめき」があるのである。

こういうのって、超面白くないですか?

こういう「ひらめき」のためには、まづ最新の脳神経科学に通じてゐる必要があり、もちろん文字学にも通じてゐる必要がある。

その上で、自由な精神が伸びやかに働いてゐないとできないと思うのだ。

すごい学者というのは、このような小さな「ひらめき」がどんどん出てきて、それらを集積して跳躍台をつくり、どーんと遠くまで飛べる人なのだと思う。

跳躍台をつくる作業、そして、どーんと飛ぶ運動、姿、それら全体が文章になって「理論」とか「体系」とか呼ばれることになるのだろう。

どれだけ遠くまで飛べるかは、その人の志にかかってゐる。

石田氏が学者としての志を素直に述べた箇所がある。

理論は、一過性のモードのように消費するのではなくて、この世界を根本的に理解するために、自分自身の手で独自につくるものなのです。とくに私のように、還暦を過ぎた研究者であれば学者人生もまとめの段階ですから、自分はこんなことを研究してきましたというだけでは不足で、私は研究の結果、こんな理論をつくりました、これが私の記号論というものだ、と言えるのでなければ本物とはいえない。特に文化系の学問領域で日本では読字の理論をつくる仕事をする人が少なすぎます。 49-50頁

 学問も、走り幅跳びと同じです。記号論という学問のチャレンジをやり直し、できるだけ遠くまで跳ぶためには、いちど下がらなければならない。ソシュールやパースといった二〇世紀の始まりまで戻って理解するのでは十分ではなくて、もっと遠くバロック期の哲学プロジェクトにまで遡る必要がある。そのぐらい助走距離を長くとるのでなければならない。そうでなければ、二〇世紀を超えて、世界自体が「普遍記号論」化している二十一世紀の文明を捉える長い射程を手に入れることができないからです。 58頁

ほとんどの人は学者ではないので「理論」をつくったりしない。

しかし、生きるということを真剣に考えるならば「この世界を根本的に理解」したいと思うだろうし、そのための「理論のようなもの」を「自分自身の手で独自につくる」ことが必要だろう。

人文知はその手助けをしてくれるものだと思う。

今の世界で、ぼくらは「ヒトの情報処理能力を超えた、大量の情報が氾濫するメディア生活」を営んでゐる。

これがどういうことなのか、よく分ってない。

本書はこの問題を考えるための、知識を与え、枠組みを提示し、知性を鼓舞してくれるものだ。

なんとか消化して、自分の生活に取り込んでいきたいと思う。

是非、読みましょう!