手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉」佐藤松男 編

滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉」佐藤松男 編 2016 河出書房新社

全集、対談、講演等から集めた福田恆存の語録。

福田語録は他に「日本への遺言」がある。こちらもよい。

編者のあとがきによれば、両語録の重複は二割程度とのこと。

福田の慧眼恐るべき。

彼の言論活動は1980年くらいで終わってゐるのだが、今の状況を見事に言い当てたような言葉が多く、がつんとくる。

なんという怜悧な知性だろう。

「本質的に考える」ということを徹底してやれば、ここまで「見えて」しまうのか。

つくづく、情報が多すぎてそれを処理するだけで脳ミソが疲れてしまうという現在のありかたはいかんなと思う。

もっと入力にフィルタをかける技術を身に着けないと。

そうして、もっと深くもぐり、もっと遠くを見て、静かに考えないといけない。

福田の言葉には、それがどんなに短いものであっても、清潔な緊張感がみなぎってゐる。

ぼくは「澄明」という言葉が好きなのだが、そんな感じだ。

語録を読んで、読み返したい文章がたくさん出てきた。

時間をつくって、また全集をひもとこうとおもう。

以下、メモ。

 

 ものを言ふ楽しさと、いつたあとの後味とをことさら大事にしたいとおもふならば、ひとはあくまでのつぴきならぬ切実なことばを語るやうに心がけねばならぬ。「民衆の心」昭和二十一年

 

 人は自分の言ひたい事を言ふ為には間違ひを恐れてはならぬ。間違ひ無しに真実を語り得ないといふ事もまた間違ひの無い真実である。「日米両国民に訴へる」昭和四十九年

 

 真に知識人の名に値する知識人の役割は相対的なエゴイズムを超える価値、即ちその前には個人も国家も他の国家も平等となり、自分の利己心を抑制せねばならぬ価値の模索を、飽くまで自己の職能を通じて努めて行く事にあるのではないでせうか。「知識人とは何か」昭和四十三年

 

 私達は宿命そのものを素直に認めなければならない。私達人間の自由は、宿命の手の附いてゐない「お余り」の領域における闘ひにではなく、その反対に私達のどうにもならぬ宿命そのものとの闘ひのうちに見出されるものである。まづ第一に、どうにもならぬ宿命をごまかさずに素直に認めること、第二に、どうにもならぬと承知しつつそれと闘ふ事、そこに真の人間的自由がある。「真の自由について」昭和四十五年

 

 私は最大の仮想敵国はアメリカだと思つてゐる。アメリカは日本を国家とみてゐない。アメリカの一州程度にしか考えへてゐないし、いざとなれば一州ほどにもカバーしてはくれない。ソ連の脅威といふけれど、たとへソ連が日本を占領したとしても、それは日本を兵器廠にするためだらう。日本の重工業を利用するわけだ。さうなれば、アメリカは日本への猛烈な爆撃をはじめるに違ひない。アメリカはその程度にしか日本を見てゐないと思ふ。

 日本人はアメリカと仲良くし、向うのいふ通りにすればアメリカが喜ぶと思つてゐる。防衛費を何パーセントふやしました、とかいふ。こんなことはくだらない。

 アメリカは、日本が強大になることを望んでゐない。ムダ金を使はせようとしてゐるのだ。ライシャワーなど知日派にしても、みんなさうだ。

 さういふアメリカであることを頭にいれて、原則をきちつとさせてから日米安保も考へるべきではないか。〔・・・〕安保はアメリカに手ごめにされてできたものだ。〔・・・〕

 安保を考へなほすなら、まづ現在の安保をなくす。その上で日本の体制をきちつとさせ、日本の自主性を明確にしてアメリカと話し合ふ。さうしてこそ対等な関係になる。もちろん「仮想敵国」アメリカを、なだめる形にしなきやいけないだろうが。「文筆業者は一人で責任を取る」昭和五十七年