手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「タイタス・アンドロニカス」シェイクスピア

タイタス・アンドロニカス」1593 翻訳:福田恒存

 

福田恒存翻訳全集・第四巻「シェイクスピア篇Ⅰ」に所収。

福田の解題によれば、これは誰か別の作家が書いたものにシェイクスピアが手を加えた作品とのこと。

 作者生存中には人気がありながら、死後これほど粗末に扱はれた作品はシェイクスピア劇中他に例を見ない。理由は作劇上、構成の欠陥、筋の矛盾、流血と悲嘆との混淆、時代の推移に伴ふ趣味の変容などが挙げられるが、何より決定的なのはシェイクスピア学の発達により、この作品が果たしてシェイクスピアの書いたものかどうか、その正典としての信憑性について多くの学者、批評家が疑義を持ち始めたからであらう。結論を先に言へば、これは二流の劇詩人ジョージ・ピールの書いたものにシェイクスピアが手を入れたといふのが今日の定説になつてゐる。

そんなわけで正典としてはひとつ格が落ちるらしい。

というわけで上演機会も多くないし、出版もさほどないようだけれど、ぼくは大変楽しく読めた。

何がと言って、残虐模写がすごいの。

二人がかりでレイプして、その女の舌を抜いて、そうして両腕をぶったぎるとか。

これは、誰に襲われたのかを言えないようにしてやろう、へっへっへ。という理由でそうするのね。いやひどい。

で、それに対する復讐というのがまたすごくて、その男二人を殺して粉砕してパイをつくるんだな。そしてその母親に食わせるという。

食わせて、殺す。

いや、こんな酷い話聞いたことないよ。

いきなり息子や娘を殺すものだから、読んでる時になんども「え、殺すんすか!?」と声をあげた。

現代とはあまりにかけ離れた「死」や「名誉」の観念が支配してゐる。

最終的には、ほとんどみんな死んでしまうという爽快さ。

「映像化不可能」とうのはこういう作品にこそつけるべき形容詞かもしれない。

これが映画になったら、もう見られたものではないと思う。

と書いて、まさかないよね、と思って検索したら、あったよ。

タイタス - Wikipedia

『タイタス』 (Titus) は、1999年制作のアメリカ映画ウィリアム・シェイクスピア作の悲劇『タイタス・アンドロニカス』を、ミュージカルライオン・キング』の演出家として知られるジュリー・テイモアが映画化した作品。 

まぢかよ。

見たいなあ。

上記、恐るべき、人肉パイをつくれという怒り狂ったタイタスの台詞を引用しておく。

聞け、畜生共、どうやって貴様等を殺す積りか、俺の肚を。この片手がかうして残つてゐるのは、その貴様等の喉を掻切る為なのだ、そしてラヴィニアはあの切株の様な両手で水盤を支へてそれに貴様等の罪に穢れた血を受けるのだ。知つてゐよう、貴様等の母親は俺と食事を共にする積りでゐる、自ら「復讐」の女神などと抜かし、俺を気違ひだと思込んでゐる。聞け、悪党共、俺は貴様等の骨を碾いて粉にし、それを貴様等の血で捏ね、その練り粉を延し、見るも穢らはしいその貴様等の頭を叩き潰した奴を中身にパイを二つ作つて、あの淫売に、さうよ、貴様等の忌はしい母親に食はせてやるのだ、大地が自ら生み落したものを、再び呑込む様にな。これが后の為にしつらへた宴だ、これが后の腹を満たしてやる献立だ、ピロメーラーも及ばぬ苦しみを貴様等は俺の娘に味ははせた、それならピロメーラーの姉プロクネーが及びも附かぬ復讐を俺は果たしてやる。さあ、覚悟はいいな、喉を出せ。ラヴィニア、ここへ、血を受けるのだ、奴等が死んだら、その骨を碾いて粉々にし、奴等の憎むべき血で捏ね上げ、その皮に忌わしい頭をくるんで焼くのだ。さあ、いいか、皆、忙しくなるぞ、この宴の用意を怠るな・・・