「騎士団長殺し」が面白かったので、初期の代表作「羊をめぐる冒険」を10年くらいぶりに再読。
この作品から村上春樹の「物語」がはじまる。
読んでびっくり、満州とか、「引き継ぎ」とか、そういうモチーフがもうここから全面的に展開されてゐるんだね。
知らんかった・・・って読むそばから忘れていくのでこうなるのだが。
初期作品に特徴的な乾いた叙情が素晴らしい。
散文が喚起するポエジーという意味では「物語」が巨大化する90年代以降の作品よりもずっと強いものがある。北野武監督の暴力映画を思い出す。
ポエジーたっぷりな散文をメモ。
妻が去る場面。
「結局のところ、それは君自身の問題なんだよ」と僕は言った。
それは彼女が離婚したいと言い出した六月の日曜日の午後で、僕は缶ビールのプルリングを指にはめて遊んでいた。
「どちらでもいいということ?」と彼女は訊ねた。とてもゆっくりとしたしゃべり方だった。
「どちらでもいいわけじゃない」と僕は言った。「君自身の問題だって言ってるだけさ」
「本当のことを言えば、あなたと別れたくないわ」としばらくあとで彼女は言った。
「じゃあ別れなきゃいいさ」と僕は言った。
「でも、あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ」
彼女はそれ以上何も言わなかったけれど、彼女の言いたいことはわかるような気がした。僕はあと何ヶ月かのうちに三十になろうとしていた。彼女は二十六になろうとしていた。そしてその先にやってくるべきものの大きさに比べれば、我々のこれまで築いてきたものなど本当に微小なものでしかなかった。あるいはゼロだった。我々はまるで貯金を食いつぶすようにその四年間を生きてきたのだ。
その殆んどは僕の責任だった。おそらくは僕は誰とも結婚するべきではなかったのだ。少なくとも彼女は僕と結婚するべきではなかった。
彼女ははじめのうち自分が社会的不適合者で僕が社会的適合者であると考えていた。そして我々はそのそれぞれの役割を比較的うまくこなしてきた。しかしそのままずっとうまくやっていけるだろうと二人が思った時、何かが壊れた。ほんの小さな何かだったけれど、それはもうもとに戻らなかった。我々はおだやかな、引きのばされた袋小路の中にいた。それが我々の終りだった。
それから、いわゆる「筆力」が尋常ではなく凄い。
読むことの愉悦を堪能した。
新しいガールフレンドが「耳を開放」したときの模写、「奇妙な男」が「先生」が築きあげたネットワークついて語るところ、異界へつづく「不吉なカーブ」を曲がるシーン、そして無類に面白い十二滝町の歴史、とにかく、その筆力に圧倒される。
ジャズバーを閉めて執筆に専念した村上は、うんうんいいながら自分の無意識を掘り進めて、「物語」の鉱脈を見つけ出した。そういうことなんだろう。
すごい。
ここから「ねじまき鳥」や「1Q84」へと物語がどんどん大きくなっていくんだな。
鼠が「弱さ」について語る場面はこの小説の白眉というか村上文学の核心を語ってゐるように思う。
「我々はどうやら同じ材料からまったくべつのものをつくりあげてしまったようだね」と鼠は言う。
鼠は「僕」のオルターエゴ的な存在。
「弱さというのは体の中で腐っていくものなんだ。まるで壊疽みたいにな。俺は十代の半ばからずっとそれを感じつづけていたんだよ。だからいつも苛立っていた。自分の中で何かが確実に腐っていくというのが、またそれを本人が感じつづけるというのがどういうことか、君にわかるか?」
「たぶん君にはわからないだろうな」
「君にはそういう面はないからね。しかしとにかく、それが弱さなんだ。弱さというのは遺伝病と同じなんだよ。どれだけわかっていても、自分でなおすことはできないんだ。何かの拍子に消えてしまうものでもない。どんどん悪くなっていくだけさ」
鼠はそういう「弱さ」に呑まれて死んだのだ。
「僕」は「不吉なカーブ」を超えて、異界にわたり、鼠と対話をして、戻ってくる。
鼠と別れて、ひとつ成熟した「僕」が現実世界でまた生き始める。
「弱さ」に呑まれないためにはこのような神話的冒険を体験して成熟しなければならない。
村上春樹はそのための物語を書いてゐるんだと思う。
感謝。