するってえとナニかい

トランク一つだけで 浪漫飛行へ In The Sky

「一神教と国家」内田樹 中田考

一神教と国家」2014 集英社新書

 

この本を読んでゐるとき、二つのニュースが飛び込んできた。

一つは香港での「逃亡犯条例」改正に反対するデモ。このデモには100万人が参加(香港人の7人に1人らしい)し、結果、香港政府は改正延期に追い込まれた。

もう一つはイランと米国との緊張緩和を目指した安倍首相のイラン訪問、およびオマーン湾でのタンカー攻撃事件だ。攻撃は安倍首相とハメネイ最高指導者との会談のほぼ同時間帯に行われたらしい。

アメリカは「イランがやった」と言い、イランは「根拠がない」と言ってゐる。真相は不明だが、緊張が高まったことは疑いをいれない。

やがて共産党中国が香港も台湾も飲み込むことになるのかもしれない。そうなれば日本人の中国恐怖症はもっと深刻になり、対米従属がさらに深化して「やっぱり核武装しかないっしょ」みたいな空気になりはしないだろうか。

イランと米国の関係はどうなるだろう。米国がイランに戦争をしかけたら安倍首相は「認識は完全に一致」とか言って支持を表明し、「存立危機事態」を宣言して自衛隊を送り込むかもしれない。

恐ろしいことだ。

今世界で起こっていることは、正直、ぼくの理解を超えてゐるし、何もできることがない。

末法の世という感じ。どんどん悪くなるぞ、という予感。

ぼくにできることは祈ることと、勉強することだけだ。

勉強するというのはいいことである。

勉強する人の「層」が厚くないと世の中動かないからね。

一神教と国家」はかなりいい本だ。

めちゃめちゃオススメしたい。

香港デモの意味や、アメリカ&イランの関係を理解する上で大きな助けとなることが書かれてある。

領域国民国家がもつ暴力性をどうやって制御するのか。そもそもイスラーム圏と欧米との対立というのは何なのか。そういう話。

中田先生の話を聞いてゐると、ほんとに、「カリフ制再興」はまったく妄想的構想ではないと思える。

いや、ぼくも後ろから「カリフ制だけが解答」と声をあげたい気もしてくる。

イスラーム圏はどうだろうか。

中国の勃興とアメリカの凋落を思うと、東アジアは真剣に「アメリカ抜きの平和」を考えてもいいのではないだろうか。

現状まったく非現実的だけれど、そういう構想をしてみることが、現在の状況を少しでもマシにすることにつながるのではないかと思う。

East Asia's Peace Without America. である。

イスラーム圏がカリフ制なら、東アジアでは、例えば中華思想に基づく冊封体制なんかを使って、国民国家の暴力性を少しでも緩和できるようようなシステムをつくることができないだろうか。

周辺国が中華帝国朝貢して冊封を受ける。

朝貢というのは別に属国になるというのではなくて、そういう身振りをとることで、支配を認めてもらう、安全を保障してもらう、ということで、中国が圧倒的な超パワーをもつようになれば、それなりに現実的なシステムだとは思うが・・・

無理か。

中華思想を使って、領域国民国家の「線引き・ウチ/ソト分けモデル」をもっと緩いものに変えられないか。

中華文明という強力な磁場を設定して、周辺にいくほどその影響力が弱くなるという発想。

チベットはオレのもの、ウイグルもオレのもの、香港も台湾もオレのものみたいな、今の中国の「勃興」を回避するには、「領域国民国家」という線引きシステム自体を解除するほかないのではないかという気がする。

「均一であらねばならない」という妄執を除くことができたら、チベットウイグルにも「一定の自治を認める」くらいの「寛容」な対応が出てくると思うのだが。

日本・朝鮮半島・台湾・香港・ベトナムラオスミャンマーチベット・新疆ウイグル・・・などが中華帝国朝貢して冊封を受ける。

ダメですかね。

日本にしても、米国の属国であるのにそうでないようにふるまうという自己欺瞞をして生きるよりも、むしろこっちのほうが自主的だし「誇り高い」生きかたのように思うがどうであろうか・・・

もっともっと米国が没落しないことには到底不可能なことではあるが。

以下、メモ。

中田 はい。たとえば、有名な「目には目を、歯には歯を」という言葉がありますね。あれ、単純な復讐法だと思っている人が多いのですが、厳密にはそうではなくて、イスラームの場合はあくまでも許すのがいちばんいいのです。これは「クルアーン」にはっきり書かれてまして、人の罪を許すと自分の罪の償いになるので、許すのがいちばんいい。けれどもそれができない場合には、同じことをやり返してもいい。しかし自分がされた以上の過剰な復讐は決して行ってはならない。そういう意味なのです。

                             46頁 

中田  今日ユダヤ教と言われているものは、ラビ・ユダヤ教と呼ばれるもので、キリスト教とほぼ同時期に並行して成立したものです。そしてまたキリスト教も成立当初には後にユダヤ教と呼ばれるようになる宗教と別の宗教という自意識はありませんでした。それ以前の宗教は便宜的に古代ユダヤ教と呼ばれることもありますが、イスラエルの民の宗教としか呼びようもない名無しの宗教でした。「ヘブライゴ聖書」の「創世記」には神が天と地を創り、次いで人類の太祖アダムを創造したと書かれていますが、アダムがユダヤ教徒だったと言うものは誰もいません。「ノアの方舟」も同じです。ではアダムやノアは何を信じていたのでしょう。彼らの宗教はなんだったのでしょう。自分たちが聖典と呼ぶ「ヘブライ語聖書」に書かれた天地を創造した神を信じながら、ユダヤ教徒キリスト教徒もそれをユダヤ教キリスト教とは呼びません。考えてみれば不思議な話です。

 イスラームは、単純明快な答えを用意しています。神の啓典を授かった者はすべて預言者であり、アダム以来の神の宗教はすべてイスラームです。ユダヤ教の「ユダヤ」は歴史上の固有名詞であり、キリスト教の「キリスト」もイエス・キリストという特定の人物を指す言葉であるのに対して、「イスラーム」だけが「服従」「帰依」を意味する一般名詞であることは、イスラームの普遍主義を端的に示しており、象徴的です。すべての預言者の教えはイスラームであり、それが唯一の正しい宗教です。しかしすべての預言者の教えが同じ一つのイスラームであったとしても、時代と状況の違いにより教えの詳細は異なり、表現が違っています。預言者モーセの授かった啓典が律法(トーラー)、イエスの授かった啓典が福音ですが、どちらも当時のユダヤ人の状況に応じたかたちでのイスラームの教えを説いたものです。

 しかしイスラームが認めるモーセが授かった律法、イエスが授かった福音は、ユダヤ教徒が持つ「ヘブライ語聖書」、キリスト教徒が持つ「新約聖書」とはまったく別のものです。「ヘブライ語聖書」の中で律法に近いものにはモーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記があり、「新約聖書」の中で福音に近いものとしてはマタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書ヨハネ福音書の四福音書があります、しかし、イスラームにおけるモーセの律法は、あくまでもモーセとイエスが授かった神の言葉、啓典なのです。なぜなら「ヘブライ語聖書」のモーセ五書や「新約聖書」の四福音書は、聖書記者たちが編集したモーセの伝記、イエスの伝記だからです。

 また現在のラビ・ユダヤ教は、「ヘブライ語聖書」も記された律法とは別にモーセの口伝の律法があり、ラビがその権威ある正当な伝承者であると主張し、ラビの学説集である「タルムード」を「ヘブライ語聖書」に次ぐ第二聖典としました。またキリスト教徒はイエスの弟子たちの言葉を編集して聖典新約聖書」としました。

 神から遣わされた預言者がもたらした啓典のみを人間が従うべき生きる指針、拠り所とすべき権威と考えるイスラームにとっては、これらは預言者ならぬ人間の言葉を聖典とし、権威に祭り上げることであり、許しがたい被造物神化に他なりません。

 つまり。あくまでイスラームから見た場合、ユダヤ教キリスト教イスラームの関係は逆転します。イスラームこそが、アダム以来の預言者たちの宗教、オリジナルであり、キリスト教とはイエスの福音を直弟子の後に続く世代が誤って解釈することによって歪曲して創り上げた宗教、ユダヤ教とはモーセの律法をイスラエルの民たちが歪曲、改変を重ねたものをラビたちが集大成したものだということになるのです。

                           56~58頁

内田 そう考えていくと、日本はアニミズムの風土だから一神教はなじまないなんてことは簡単には言い切れないですね。現に戦国時代から江戸初期にかけてはキリシタンが爆発的に広まった歴史もありますし。

中田 ええ。全然。

内田 多神教一神教というのは、宗教性のかたちとしてもともと両方とも人間の中にあるんでしょうね。環境的・歴史的素因で、どちらかが優勢になるけれど、多神教だけ受け容れられて、一神教はダメな集団というのはありえないでしょうね。

                              99頁

内田 今世界中の至るところでアメリカの世界戦略がイスラーム集団と激しいフリクション(摩擦)を起こしていますけれど、それはそれぞれの地域での個別的な政治的紛争にたまたまアメリカが巻き込まれて、そのつどなぜかイスラーム集団と対立しているということではないんです。個別的な理由ではなく、もっと根本的な理由でアメリカはイスラームと「不倶戴天」の関係にはまり込んでいる。それはアメリカ主導のグローバリゼーションはイスラーム圏が存在する限り成就しないからです。そのことをアメリカはたぶん直感している。イスラーム圏を無力化しない限り、グローバル化、つまり「パックス・アメリカーナの半永久化」は実現できないことがなんとなくわかっている。だから、どうしてもイスラーム圏は解体しなけらばならない。そういう意識が働いているのではないかと思います。

                             140頁

中田 紙幣は記号ですから実体から遊離すると偶像に堕します。純粋な記号の数字だけの電子マネーはもっと露骨な偶像です。ゆえにそういうものの暴走は許さないというのが基本的なイスラームの考え方です。記号は記号でしかなく、それには記号が代理する実体に対応する価値を与えない。イスラームはことばは事物と正しく対応しうる、と考えます。しかし、言葉自体は記号でしかないので、事物との対応は自然には保証されません。言葉が事物との対応を失い、虚偽の幻想によって人々を支配するようになること、それが偶像崇拝です。イスラームは実体と対応した記号、言葉の正しい用法にこだわり、記号が実体から遊離し、偶像崇拝に陥ることを常に警戒します。

                             146頁