手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「イスラム 癒しの知恵」内藤正典

イスラム 癒しの知恵」集英社新書 2011

イスラームの勉強を始めて一か月。その程度だから、その程度しか知らないのだが、その程度なりのことが分かりはじめてゐる。

日本で生まれ育ち、葬式仏教と初詣神道しか知らない、じっしつ「無宗教」で生きて来た自分にとって、イスラームは完全に異世界であり「外部」だ。

イスラームを学ぶことで、ぼくは「外」に出ることができる。それが己を知ることにつながる。それが面白い。学問として、たいへん面白い。

しかし、それだけでなく、知れば知るほど(と言ってもまだ一般向けの本を数冊読んだ程度なのだが)イスラームは本当に素晴らしいなと感じる。

ムスリムのぼくがこういう言い方をするのも変というか、よくないのかもしれないが、「アッラーは慈悲深いなあ」と思ったりする。

早くクルアーンを読みたいけれど、もう少し先にする。

機が熟するまで、待つ。もうちょっとだ。

人間はおろかであり、権威にすがりつき、欲望にはきっと負けてしまう、弱い存在だ。

イスラームは人間のそういうダメさを前提としてゐる。

そのリアリズムがぼくは好きだ。人間讃歌とはおよそ反対だ。

賛美すべきはアッラーだけだ。だからいいんだ。

アッラー以外の権威は一切認めない。だから、それ以外の全存在はみんな平等であるということになる。王も、法学者も、貧者も、バカも、みんな同じ位相にある。

アッラーが絶対で、アッラー以外の権威をすべて否定するから、それが可能になる。

偶像崇拝の禁止というのはほんとに凄い知恵だと思う。

偉大なアッラーを讃えることが人間が存在する意味だ。「充実した人生」を送る必要なんてないわけだ。人間がすべきことはクルアーンハディースにかかれてある。それを行えばOKなんだ。

これは慈悲深い。

しかも、アッラーは人間はどうせ決まりなんか守れない存在であることを分かってゐるので、禁じられたことをしてしまった場合の償いの方法も用意してくれてる。

その方法というのは弱者に施しをするとか、困っている人に親切にするとか、そういうことなんだ。

これは真実、偉大な知恵だと思う。

罪を犯した、だから刑務所に入って反省しなさい、ではない。

罪を犯した、だから貧しい人にあなたの富を分け与えなさい。というわけだ。

これはすごい。感激した。

何をすればいいかも教えてくれて、教えが守れなかったときの償いの方法も教えてくれて、償うことが弱者救済になる。

しかも、施しをしても神の命令なのだから、そこに権力が発生しない。

優越感を得ることもないし、劣等意識を感じることもない(理論的には)。

すごい知恵だ。

以下、メモ。

 ムスリムは一〇〇%来世の存在を信じる。漠然とあるかないかも分からぬ来世を想うのとは違う。来世への確信は、酒を飲む人も、お祈りをしない人も 、揺らがない。イスラムという宗教には、六信といって六つの信仰対象がある。一・唯一神アッラー、二・天使、三・啓典、四・預言者(神の使徒)、五・終末(来世)、六・運命(予定)である。

  イスラムには、「使者の霊」という発想はない。大切な人を失う悲しみは途方もなく深いし、失った人への愛惜や追慕の情も果てしなく深い。しかし、死者の霊がさまよって出てくるとか、現世の人間に何かをもたらすということはありえないのである。死んだら、残された人間との交流は、その時点で終わる。あとは最後の審判まで、死者がどこにいるかの記述はコーランにもハディースにもない。墓を詣でる人はムスリムにもいるが、それは生前の思い出のだめに詣でるのであって、そへ行けば、死者の霊に出会えるという発想はまったくない。

 イスラムは、人間が欲望に弱く、過ちを犯しやすい存在であるとしているが、犯した悪事に対していちいち現世で神が罰を下すのではない。天使が、来世で天国に行くか地獄に落ちるかの帳簿をつけているのである。神は現世の人間に対しては、完全にアトランダムに良いこも悪いことももたらす。だからこそ、悪いことばかり続くはずはないし、良いことばかり続くはずもない。そのすべてが、超越した神によって按配されていると考える。キリスト教のような「原罪」の観念はない。仏教でいう前世の行いが報いとして現れる「宿業の観念」もない。

 そして、最後の審判のときに、神が生前の善行と悪行とを天秤にかけて、悪行が重ければ地獄行き、善行が重ければ天国行き、と仕分けるのである。

 神に「従う」のだから、行為で表さなければならない。そのためイスラムには法体系としての側面が不可欠だといってもよい。内面の信仰、外面の行為、この二つが合体しないとイスラムにはならないのである

 コーランには、実に多岐にわたって人生のルールが定められている。定めているのは神であって人間ではないから、イスラムの法というのは、すなわち神の法ということになる。

 なかでも五行(五柱)といって、五つの基本的な義務がある。一・信仰告白、二・礼拝、三・喜捨、四・断食、五・巡礼の五つである。

 実は、イスラムにはもう一つ、サダカという自発的な喜捨がある。こちらは財を差し出してもいいし、食事を提供したり、さまざまな「親切」をすることでもいい。病気の人に優しい言葉をかけることもそうだし、貧者に食べ物を提供することもそうだし、また、旅人に親切にすることもサダカである。悩みを抱えた人に寄り添って、時間を費やすこともサダカとなる。そして、家族を養うための支出や親族を助けるための支出もサダカである。つまり、善行ということになる。

 ムスリムは、現実の生活のなかで何かを決めなければならないとき、イスラム法の体系のなかで道を探す。この体系が人間を追い詰めず、かつ倫理を踏み外さないように創られていることを目の当たりにすると、ムスリムは神が偉大であり、すべてを知悉し、あらゆることの通暁する存在であることに、あらためて畏れを抱くのである。

 わざわざ、アッラーの決定だと強調しているので、旅人への施しは、神による絶対的命令となる。ここでは施しと訳しているが、日本語の施しという言葉には、受ける側は、どこかしらうしろめたいものを感じるし、豊かな者が貧者に慈善として何かを差し出すことの意味になる。しかし、イスラムでいう施しは、そうではない。

 実際に施すのは人間で、施しを受けるのも人間である、だがイスラムは、人の善意を神の命令の中に組み込んでいる。ここに偉大な知恵がある。人間主体の善意で、客をもてなす場合、そこにはなにがしかの見栄なり、よく思われたいという欲が反映される。

 強い立場にある人間は、弱者への施しをすることで、来世での楽園生活の一歩近づくことができる。施しをしないような金持ちのムスリムは、神が嫌う吝嗇ということになるから楽園は遠のく。だから、ゆめゆめ弱者に「施してやった」などという態度を示すことがあってはならない。そんなことをすれば、せっかくの善行が無に帰したうえに、アッラーの怒りを買う。施しを受ける立場からは、誰かが助けてくれるかどうかは、助ける側が神の定めた義務を果たすかどうかの問題にすぎない。施しや親切を受けることで、なんら負い目を感じる必然性がないのである。

 コーランでは、妻を夫にとっての衣、夫を妻にとっての衣と表現している(雌牛章187節)。この表現が出てくるのは、禁欲の命令が解かれたラマダン月の夜、夫婦が交わるのを神が許したという箇所である。心も身体も一つに結ばれることによって、幸福と快楽を共有する――イスラム的人間観には、一人の男と一人の女が孤独の闇に陥らないようにするために神の意志が込められている。しかも、それは厳然とした公正な契約という法的な拘束を受けるのである。孤独な闇から人間を救うだけではない。人と人とを配偶として結びつける以上、そこに不公正な抑圧や格差が生じることを禁じているのである。人間の欲望と法の定めを神が一つにまとめあげることによって、イスラム独自の夫婦の絆をかたちづくっている。