手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り🌴

「イスラムが効く!」内藤正典 中田考

イスラムが効く!」2019 ミシマ社

かなりいい。イスラームってほんとにいい宗教だなあと思った。

これからイスラームについて勉強することに決めた。

入信までは考えないけれど、人類の知恵として、論語プラトンを読むように、クルアーンハディースを読みたい。

しかし、それらを手に取る前に、内藤正典中田考、両著者の著作を読んで理解を深めていきたい。

ぼくはラジオデイズでの平川克美さんと中田考先生の対談を聞いて面白かったからこの本を読んだのだが、どこにピンときたのかというと、中田先生のお話、つまりそれはイスラームのお話なのだが、そこに自分の枠組みを大きくゆさぶり、どん詰まりの状況を打開するための手がかりのようなものを感じたからだった。

それは大きく言って二つの次元に関わる。

まづ、「領域国民国家」をどうやって超えていくかという、世界システム・世界認識の次元。

近年の「国民国家」強化の動き、アホらしいナショナリズムの昂揚を見るにつけ、ぼくは心底うんざり&げんなりして、たいへん消耗気味なのである。

日本の政治状況を考えるとほんとに鬱になる。

中田先生は「カリフ制のみが解答」と言う。

おもしろい。

日本含む東アジアはイスラームが少ないから、カリフ制は直接的には関係がないけれど、もしカリフ制がトルコからインドネシアに至る広大な地域において実現するとしたら、それは現代の領域国民国家を超える一つのモデルとして、確かに大きな希望であると思う。

これは面白い。もっと深く知りたいと思う。

もう一つは、一人の人間としてどう生きていくか、という実存的なレベル。

ぼくは生きてゐること、そのこと自体に、なにかしっくりきてない感じがある。好きなこと、楽しいこと、やりたいことはある。

しかし、不安である、承認欲求というやつがしばしば自我をおびやかしてくる。

特別な人間でゐたいとか、何者かでありたいとか、チヤホヤされたいとか思ってゐる。ぼくはそういうのが嫌である。やめてくれ、と思う。ところがなかなか逃れられない。

とても貧しく、どうもパっとしない人生を気にしてゐる。けっこう楽しく生きてゐるから、そんなの気にせずともよい、そうも思うが、日本の俗っぽい社会は、あまりに年収や職業や年齢で人を判断しすぎる。

ぼくはそれを完全に無視できるほど強い自我をもってゐない。自我を支えるよりどころがない、あるいは、とても弱い。

超越的な存在や価値と結びつく感触を欲してゐる。

こういうぼくが、アッラー以外の権威を一切認めないというイスラームに関心をもつのは、当然と言えば当然なのかもしれない。

イスラムが効く!」はとてもいい本だ。

中田先生のあとがきが、本当に素晴らしい。感動した。短い文章だけれど、宗教者の高貴な精神に触れることができる。名文なので、たくさん筆写しておく。

 イスラームの世界観では、人間だけでなく、 素粒子から月、太陽、星々恒星にいたるまで、森羅万象は私たち人間にはわからない彼らの言葉で神を称えている。森羅万象が神を称える姿が、この宇宙の実相である、と言うこともできる。

 この宇宙には神への賛美のポリフォニーが響きわたっている。アッラーは、ただ彼に仕えるためだけに人間を創造された。クルアーンコーラン)古典釈義書によると「仕える(ヤァブドゥ)」とは「知る(ヤァリフ)」を意味する。「神を知ること」が、人間の創造の目的である「神に仕えること」であり、それが私たちが生きている意味である。

 すべては神の経綸であり、私たちの過去が私たちの手になるものではなかったように、私たちの将来も神の御手にある。

 しかし私たちが世界を創ったのでないとしても、私たちが世界に跡を残したことは確かであり、私たちの存在が創造以来の過去の跡の連鎖の輪であったように、私たちの存在の跡は世界の終わりまで連綿と続いていく。私たちの存在の意味は私たちの死によっては完結せず、世界の終わりを待って初めて明らかになる。

 私たちには、この世界が神を称える声が聞こえないように、過去と未来を見通すことができない。しかし世界の創造者であり、時空を超えた存在であるアッラーの知の中では、過去も未来もすべては「今」であり、現存している。そしてこの宇宙が終わった後、新しい存在の秩序が新たに創造される。それが最後の審判であり、創造主の前で新しい次元の存在に生まれ変わった私たちの生の全ての意味はそこで初めて明らかにされるのである。

 イスラームは自分の生だけでなく、自分と親と祖先たち、子どもと子孫たち、そして彼らがかかわった全ての人間の生に意味を与える。意味が与えられるのは生だけでなく、死にもまた意味が与えられる。生に意味があるように死にも意味があり、成功に意味があるように失敗にも意味がある。人は生きているあいだに失敗を成功で償うことができるように、死の後にもなお生の意味は未来に向けて開かれている。

 イスラームは私たちの目を宇宙の創造に向けさせることで、自分たちが当たり前のものと信じ込んでいる常識、義務などが、時代と地域に縛られた根拠のない思い込みにすぎないこと、そしてそれゆえに、自分と同じ儚い被造物でしかない人々の評価に一喜一憂することの虚しさに気づかせ、現代人の精神を蝕む承認欲求から解放してくれる。

 以下、本書から、いいなと思った箇所をメモ。

・本来イスラームには外から押し付けるような決まりはない。守らなければならないルールはあるが、押し付けられるのではなく個人的に守ってゐるのが基本。「神との関係んいおいて誠実な人間は、人間同士の関係においても誠実である」と考える。(中田)

イスラームは因果応報の思考回路を遮断する。悪いことが起きても、いいことが起きても、「あれをしたから、これをしなかったから」みたいに自分を責めたり、褒めたりする思考回路とは全然違う回路がある。原因と結果をつきつめすぎない。(内藤)

イスラーム教の有名な言葉に「イン・シャー・アッラー(神・アッラーが望みたもうならば)」というものがある。コーランに出てくる。未来のことを言うときには必ずこれをつける。「あとは神様がこうしてくださいますように」という祈り。祈ることしかできない。過去に対しても同じ。必ず神の意志が介在してゐる。 悪いことがあっても、「それはきっと次に起こる良いことのためになるのだ」と考える。それを自分で見つけることができるだろうと。(中田)

イスラームには立憲主義の考え方がないが、これは権力者が好き勝手にできるということではない。イスラームは「人間は自分でルールをつくっても絶対に自分で破るだろう」と思ってゐる。イスラームそのものが壮大な法の体系。聖典クルアーン」が「神の法」の源であって、それを上回るものが人間に作れるわけがない。(内藤)

・法理的には、法を人間が作るというのは非常に新しくて特殊な考え方である。法というのはもともとあるもので、それを発見するのが本来の立場。法はあるものであって、作るものではない。人が作った法律なんて何ができるかわからないのだから、本当に恐ろしいもの。それはあくまで「権力者の命令」であり、法とは別。(中田)

イスラームの教えの基本は「人の言うことは気にしなくてもいい」ということ。神様が認めてくれればそれでいいわけだから、人がなんと言おうとかまわない。「私は自分で神様に従ってゐる」と思えばそれでいい。イスラーム教には聖職者がゐないので、ほかの人も何も言わない。(中田)