手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「呪いの時代」内田樹

「呪いの時代」2011

著者:内田樹 出版社:新潮社

 

2014年の文庫版を手にとった。独立研究者・森田真生氏の解説が秀逸、というか感動的。

 内田樹の文体は、このような地道な身体的稽古の、気の遠くなるような積み重ねの中で、磨かれ、練りあげられてきたものである。その言葉はいつも、「正しいこと」よりも「生きる力を高めること」を目指して発せられる。

 集団としての生きる力を高める理法を「倫理」と 呼ぶことにするならば、内田さんの論理には、それを支える確固とした倫理がある。

 内田樹という書き手に、これだけたくさんの読者が夢中になるのも、言葉にはそれを裏付ける身体があり、論理にはそれを支える倫理があり、理屈にはそれに釣り合う実感があるべきはずだという読者の思いに、内田さんが確かに応えてくれるからだろう。

                      (太字部、原文は傍点)

内田先生にはたくさんのことを教わったが、一番大きいのはやはり、「生きる力を高める」ことの大切さだと思う。

内田先生の文章を読むと、「元気がでる」のである。もちろん、すごく勉強になるし、知識も増えるし、見事な文章を読むことそのものの快もとても大きい。

けれど、なによりも、「元気がでる」のだ。

内田先生のことばで言うなら「生命力を賦活される」。

これはやはり内田先生から読者への「祝福」なんだろうと思う。

ブログを全部読み、たくさんの著作を読んできたぼくにとっては、「いつもの話」がとても多い。けれどやっぱり読みたくなる。とくに、苦しいときに。

元気のないことが多い。それはぼく自身が呪いのことばを発してゐるし、受けてもゐるからだろう。

そんなとき、内田先生の文章を読む。

すると元気がでる。

自分も祝福のことばを発しよう。この世界によきものを生み出したい。

そういう気持ちにさせてくれる。

誇張なしに、内田先生は日本の宝だと思う。

内田先生の「あとがき」を引用する。

 私たちはもう 「壊す」時代から抜け出して、「作る」時代に踏み入るべきだろうと思う。命胆石に迫る病人に向かって「生き方を根本的に変えろ」と叱りつける人間はいない。それよりは残されたわずかな生きる時間の質を維持するためにどうするかを考えるだろう、私たちの社会もそれに似ている。制度は至る所で劣化している。かつてのような体力もない。もしもの場合に取り出すことのできる隠された財産もない。外からの支援の当てもない。もう「批判」をして「はい、終わり」と事を済ませていられる状況ではない。

 私たちの意識を批判することから提言することへ、壊すことから創り出すことへ、排除することから受け容れることへ、傷つけることから癒すことへ、社会全体で、力を合わせて、ゆっくりと、しかし後戻りすることなくシフトしてゆくべき時期が来たと私は思っている。そのときに指南力を発揮すべきなのはメディアである。けれども、メディアはまだ「呪い」の語法を手放すことができずにいる。

 この本の中で私は別に目新しい知見を語っているわけではない。みんなが知っていることをもう一度繰り返し確認しているだけである。呪詛も贈与も人類と同じだけ古い制度であり、それがどう機能するものかは誰でも知っている、けれども、多くの人びとはそれは神話や物語の中のことであって、私たちの日々の生活には何のかかわりもないと思っている。そうではない。呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結びつけている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。

なんだか引用ばかりになってしまった。

けれどそれでよいのだ。

内田先生の文章を筆写すると元気がでるから。

贈与したい!祝福したい!って気持ちになるから。

日本はほんとうに危機的状況にあると思う。没落はとめられないだろうが、その中で、人々が贈与しあい、祝福しあい、互いが癒しあえる場所をつくっていかないといけない。

「壊す」から「作る」へ。

ぼくも、自分にできることをやっていきたい。

着実に、作っていきたい。