生活の芸術

ぼくはここで踏ん張る

2013年参院選 「ねぢれの解消」すなわち「歯止めの消滅」

第23回参議院議員通常選挙 2013年7月21日 
 
投票率:52.61%
自民党のキャッチコピーは「実感を、その手に。」
民主党のキャッチコピーは「暮らしを守る力になる。」
 
 Japanese House of Councillors election, 2013 ja.svg出典:Wikipedia
 
 参議院議員定数242人の半数、121議席が改選対象の選挙。自民党65議席公明党11議席獲得。非改選議員と合わせると与党の議席数は改選前から32議席増えて135議席となり過半数を獲得した。
 
 民主党は公示前の86議席から59議席へと惨敗。「暮らしを守る力になる。」というコピーを記憶してゐる人はまれだろう。それどころか、選挙時の民主党の代表を言える人がどれだけゐるだろう。みなさん思い出せますか?
 
 答えは海江田万里である。ぼくも今調べて「ああ海江田さんだったなあ」と思い出したくらいだ。それほどに民主党の影は薄くなってゐた。何を実現するための政党であったのか、そのアイデンティティがぼやけ国民の期待を担うことができなくなってゐた。リーマンショック直後に誕生し、東日本大震災に見舞われた民主党政権は実に不運だった言わねばならない。
 
 この選挙についてあらゆる報道・記事が次の事実を指摘してゐる。「ねぢれの解消」である。「ねぢれ」とは衆参両院で多数派の政党が異なる状況を指す。第一次安倍政権下の2007年、参院選民主党が大勝し参議院第一党となり「ねぢれ国会」が生まれ、そこから2013年夏まで続いてきた。
 
 今ふりかえると、衆参両院で多数派の政党が異なる状況を「ねぢれ」という否定的なことばで片付けてしまったことがそもそもおかしかったのではないかと思う。ねぢれとは「歯止め」でもあった。
 
 しかしメディアも国民もこの状況を「決められない政治」として悪役に見なす傾向が強くなった。右も左も、保守も革新も「改革、改革、改革をとめるな!」と叫び、「野党は批判ばかりしてゐる」というイメージが定着した。
 
 「批判するなら対案を出せ」という恫喝がほとんど無敵の力を獲得した。安倍首相は2018年になっても街頭演説で「批判ばかりしていては何も生まれないんです!」とばかり言ってゐる。それで選挙に勝ち続けてゐる。
 
 「ねぢれの解消」とは「歯止めの消滅」であった。安倍政権への歯止めを失うこと、それを国民は望んだのだろうか。そうではないだろう。
 
 投票率参院選では戦後三番目の低さ。前提として国民の半分しか投票に行っていないという事実は重くうけとめなくてはいけない。それは現在の選挙制度が民意をすくいきれてゐないということだろう。
 
 国民は安定を望んだ。首相がころころ変わることにまいってゐた。景気をよくして欲しいとおもってゐた。決して、「歯止めの消滅」を望んだわけではなかった。
 
 もちろん歯止めが消滅しても為政者の側に「自制」や「誠実さ」があれば問題はないのかもしれない。しかし聖人君子を期待しないというのが民主制だろう。
 
 実際、自公政権から「自制」と「誠実さ」を見出すことは困難だ。例えば選挙直後、国家基本問題研究所のシンポジウムに出席した麻生太郎副首相の発言などがそれを証しするだろう。
 
 憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わってゐたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。
 
 よくここまで国民を愚弄することばを吐けたものだ。国民に対する侮辱でなくてなんだろう。
 
 憲法改正については自民党公約の一番最後のページに記載がある。また、1月の衆院本会議で安倍首相は「まず改憲要件を定めた96条を改正する」と発言してゐる。
 
 安倍首相の改憲への言及は「96条を改正して改憲を容易にする」→「緊急事態条項が大切」→「教育無償化」→「お父さん憲法違反なの?」へとコロコロ転々。
 
 つまり何でもよくて、とにかく「みっともなくて、いぢましい」現行憲法を変えたいということなんだろう。それで日本の「国柄」とやらが表現された立派な憲法になるのか。
 
 改憲発議の要件である衆参両院の2/3以上という議席数には達しなかったが、「ねぢれ」という「歯止め」が消滅し、安倍政権は「安定的な」政権運営が出来るようになった。
 
 9月には五輪招致のための「アンダーコントロール発言」があり、12月には特定秘密保護法強行採決し、靖国神社に参拝。翌2014年春には武器輸出三原則を改め、そして7月には集団的自衛権の行使容認を閣議決定する。
 
 安倍一強が確立され、「保守」勢力による「革新」が着々と進行していくのだった。