空洞としての安倍晋三

 目次

安倍晋三年譜

参考:
安倍三代             青木理  2017 朝日新聞出版
安倍晋三 沈黙の仮面       野上忠興 2015 小学館
新しい国へ 美しい国へ 完全版  安倍晋三 2013 文春新書
 
1954年 9月21日 安倍晋太郎、洋子の次男として東京都に生まれる。
1957年 2月25日 祖父・岸信介内閣総理大臣に就任。父・晋太郎が毎日新聞を退社し秘書官に。
1960年 5月19日 岸信介、新安保条約を強行採決安保闘争始まる。幼い晋三が祖父に「アンポって、なあに」と聞くと岸は「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ。なんでみんな反対するのかわからないよ」と答えたという。(美しい国へ 第一章「わたしの原点」)
1961年 4月 成蹊小学校に入学。安倍はその後、中学・高校・大学と全てエスカレータ式に進み、都合16年成蹊学園に通う。
1970年 4月 成蹊高等学校に進学。「70年安保闘争」に関して社会化の教師と論争。このときの先生のうろたえた姿が「決定的だった」という。(美しい国へ 第一章「わたしの原点」)
1973年 4月 成蹊大学法学部政治学科に進学。アーチェリー部に所属。このころの安倍にはまだ、はっきりとした政治家への強い意欲はなかった。ゼミの友人の一人は以下のように語ってゐる。「本当に後を継ぐ気であれば、もっといろいろな知識を吸収して“将来日本はこうあるべきだ”といったモチベーションがあってもよかった。でも当時の安倍君には、そういうビジョンはなかったし、その片鱗を語ることもなかった」。(沈黙の仮面)
1977年 3月 成蹊大学を卒業。進路に悩んでゐた安倍は米国遊学を決意。「学究に燃えてということでもなかった。とりあえず世界を、アメリカなんかをみたいな、という程度の気持ちだった。ずっと英会話は習っていたし、英語に磨きをかけたいとも思った。まあ、語学が多少できるようになれば、ということで決心した」(沈黙の仮面)。春にロサンゼルスに渡り9ヶ月ほど英語学校で語学研修を受ける。
1978年 1月 南カリフォルニア大学に入学。取得したコースは全部で6、そのうち3つは“外国人のための”英語で、政治学は入ってゐない。春季・夏季・秋季のみに在籍して約2年の米国留学を終えることになるのだが、安倍はかつてこの経歴を「南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学」と記してゐた。が、2004年、週間ポストのスクープにより虚偽が発覚、これを受けて安倍は留学の経歴をプロフィールから消した。
1979年 5月 米国から帰国し神戸製鋼所に就職。ニューヨーク事務所に勤務。
1980年 4月 神戸製鋼所加古川製鉄所に配属され、工程課厚板係となる。6畳一間の独身寮の相部屋で同僚と生活。夏になると体調を崩して東京の病院に入院(潰瘍性大腸炎と診断される)、療養生活を送る。現場勤めは無理と判断された安倍は翌年2月頃、東京本社に異動させられる。
1981年 2月 東京本社輸出部に異動。当時の上司は安倍のことを以下のように評してゐる。「まったく普通の子。真面目だし、エバるわけでもないし、腰も軽かった。仕事をまかせても、さしたる失敗をした記憶はありません。人づきあいの勘が良くて、要領がよくて真面目で、敵をつくらない。だからみんなに好かれてゐた。まるで子犬のようだった。」(安倍三代)
1982年 11月 中曽根内閣誕生。父・晋太郎が外務大臣に就任。父に「オレの秘書官になれ」と言われた安倍は「わたしにも会社があります。これでも年間数十億ぐらいの仕事はしているんです」と抵抗。が、そもそもが政略入社であり、神戸製鋼所にとって晋三は、晋太郎から「預かってゐる」状態。上司の説得を受け入れ、晋三は退職を決意。秘書官に就任。
1987年 6月 森永製菓社長令嬢の昭恵と結婚。
  8月7日 祖父・岸信介90歳で死去。
1989年 1月7日 昭和天皇死去。
  11月9日 ベルリンの壁崩壊。
1991年 5月15日 父・晋太郎67歳で死去。
  11月 ソ連崩壊。米ソ冷戦の終結
1993年 7月 祖父と父の「地盤・看板・カバン」を継ぎ、第40回衆議院総選挙に出馬し初当選。
  8月9日 細川内閣成立。自民党、1955年の結党以来初の下野。野党議員として政治家人生をスタートさせる。
1994年 4月28日 羽田内閣成立。
  6月30日 村山内閣成立(自社さ連立政権)。
1995年 1月17日 阪神淡路大震災
  3月20日 地下鉄サリン事件
  8月15日 戦後50年村山談話
1996年 1月11日 橋本内閣成立(自社さ連立政権)。
1997年 5月30日 日本会議設立。
1998年   年間自殺者数が統計のある1897年以降で初めて3万人を越える。2003年に34,427人で最大となり以降減少し2012年に3万人を割る。
  7月30日 小渕内閣成立。
2000年 4月5日 森内閣成立。森善朗首相は安倍晋三の父・晋太郎の弟子だった。森は「恩人の息子」である晋三を内閣官房副長官に抜擢する。
  5月15日 森首相、神道政治連盟国会議員懇談会において「日本の国、まさに天皇を中心としてゐる神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く(その思いで活動してきた)・・・」と発言。
  6月~8月 山口県下関市安倍晋三自宅と事務所に、5回にわたり火炎瓶が投げ込まれる。事件の経緯は次のとおりである。1999年の下関市長選挙に際し、安倍の秘書が暴力団関係者に対立候補を中傷する文書を書くことを依頼。その成功報酬は500万円だったが安倍事務所は300万円しか支払わなかった。火炎瓶はそれに対する報復だった。
  7月 第2次森内閣官房副長官に就任。
2001年 4月26日 小泉内閣成立。官房副長官に再任。
  9月11日 アメリカで同時多発テロ事件。
2002年 5月13日 早稲田大学講演で「憲法上は原子爆弾だって問題ではないですからね、憲法上は。小型であればですね」と述べる。反響大きく「タカ派の旗手」と目されるようになる。
  9月17日 小泉首相訪朝、「日朝平壌宣言」。午前の会談で拉致被害者8人の死亡が通告された。ここで安倍は小泉に「謝罪がないななら調印は考え直したほうがいい。このままなら帰国すべきです」などと強気の交渉を進言。これが会談後メディアに大きく取り上げられ、反北朝鮮ナショナリズムに沸騰してゐた世論に「拉致の安倍」として評価されるようになる。
  10月15日 拉致被害者5人が帰国。ここで安倍は「一時帰国」という北朝鮮側との約束を守るべきとの方針の外務省に反対し「5人を帰すべきではない」と主張。小泉はこれを受け入れた。この「約束違反」により日朝交渉は早々に破談してしまったのだが、「強硬姿勢の安倍」の人気は一気に高まるのだった。
2003年 3月 イラク戦争始まる。
  7月26日 イラク特別措置法成立。
  9月21日 自民党幹事長に就任。拉致問題への強硬姿勢以外に実績がなかった安倍を抜擢したのは「国民受け」を狙った小泉首相の「サプライズ人事」だった。
2004年 7月11日 参院選。自民敗北し民主党に第一党の座を奪われる。これを受けて、9月の内閣改造で安倍は幹事長を更迭される。
2005年 9月11日 小泉「郵政解散」を受けての選挙。造反議員を「抵抗勢力」と呼び刺客を立てるという「劇場型選挙」を演出。結果、自民は大勝利。
  10月31日 第3次小泉改造内閣官房長官に就任。
2006年 7月21日 美しい国へ」発売。
  9月26日 53歳で内閣総理大臣に就任(戦後最年少・戦後生まれで初)。「戦後レジームからの脱却」を掲げて「美しい国づくり内閣」を組閣。小泉が郵政解散で獲得した圧倒的議数を背景に政権運営を進める。教育基本法改正(愛国心の涵養)、防衛庁設置法改正、国民投票法の制定、イラク特別措置法改正(イラク派遣の延長)等。
  12月2日 在日特権を許さない市民の会設立。
2007年 7月29日 参院選自民党大敗し、民主党躍進。「ねじれ国会」となる。
  9月12日 臨時国会所信表明演説を行った2日後のこと、突如退陣を発表。理由として「テロ特措法の再延長について議論するために民主党代表・小沢一郎に党首会談を打診したが断れた。局面を転換するために、新たな総理の下でテロとの戦いを継続していくことを目指すべきと判断した」と説明。が、実際のところは持病・潰瘍性大腸炎の悪化が原因だった。
  9月26日 福田康夫内閣成立。
2008年 2月6日 橋下徹大阪府知事に就任。橋下は「大阪都構想」の実現を掲げて、2011年には府知事を辞任し大阪市長に就任。2015年、「大阪都構想」を問う住民投票が行われ否決され、年末の任期満了に伴って政界から引退。
  9月15日 リーマン・ブラザーズ破綻。
  9月24日 麻生内閣成立。
2009年 8月30日 第45回衆議院議員総選挙民主党大勝利、単独過半数獲得。
  9月16日 鳩山由紀夫内閣成立。
2010年 6月8日 菅内閣成立。
  9月7日 尖閣諸島中国漁船衝突事件
2011年   人口減少社会に突入。戦争直後の人口は7200万人、1967年に一億人を突破、2010年に1億2806万人でピークとなった。2060年には8674万人になると予想されてゐる。
  3月11日 東日本大震災
  8月30日 野田内閣成立。
  9月3日 BS11「未来ビジョン」に出演。日本国憲法について持論を述べる。《前文にある「平和を愛する諸国民」などというのはどこにもゐない。だからインチキである。日本国憲法は敗戦国日本が戦勝国から「侘び証文書け」と言われて、しかも他人が(アメリカ)が書いたものだ。また「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」における「地上から永遠に除去しようと努めてゐる」の主語は「日本」ではない。「平和を愛する諸国民」がそう考えてゐるから、その人たちの褒めてもらおうぢゃないか、というのが日本の態度である。まことにいぢましいもので、こんないぢましいものをよく66年間も大切に拝んできたものだ。》
2012年 9月26日 自民党総裁選挙。石破茂との決戦投票に勝利し総裁に。1回目の投票では地方票で石破に大差をつけられ2位だった。
  11月16日 第46回衆議院議員総選挙民主党惨敗。自民党第一党に。

 

空洞としての安倍晋三

 
 安倍晋三は総理の座に復帰した2012年末からこれまでの間に、実に多くのことを成し遂げた。特定秘密保護法の制定、東京五輪の招致、原発再稼動、解釈改憲による集団的自衛権の行使容認、共謀罪法の制定等。個別の政策について取り上げれば、国民の過半が賛成してゐるわけではない。大きな反対が起り、デモが行われることもしばしばだ。
 
 しかし、国政選挙では復帰以来負けなしであり、与党が過半数を占めてゐる状態が変わらないから、彼の政権は強引に(正当な手続きを破壊しながら)法案を通し、反対意見を一顧だにせず、ごりごりと政策を進めていく。その姿勢が受けてゐる。彼の「悲願」であるところの憲法改正が本当になされるかもしれない。
 それはまだ先のこととして、既に十分に、安倍政権はこの国の秩序と国民の精神を大きく変えた。
 
 彼の望むとおり、「押し付けられた、みっともない」日本国憲法に基づいて戦後日本が築いてきた、平和国家としての理念や民主制、自由と平等、法治の原則といった普遍的価値は大きく損なわれた。その代替物として登場してきたのは、「勝てば官軍、愛国無罪」という理非曲直が完全に失われた似非愛国・排外カルトシステムだった。そこでは「和を以って貴しと為す」という聖徳太子以来の美徳のもとに、「和」に逆らうもの=現政権に逆らうものが「反日」として徹底的に排除・抑圧される。
 
 「勝てば官軍」、「和を以って貴しと為す」。これほど日本人の国民性を見事に表した文句が他にあるだろうか。「和」そのもの、「みんな一緒」であることが絶対的な規則であり、「和」の中身が正しいのか、筋が通ってゐるのか、理はあるのか、そんなことはどうでもいいのである。「みんな一緒」であれば何をしても、その結果がどうなっても、水に流せばすんでしまう。
 
 第二次安倍政権が誕生してから5年9ヶ月経ち、日本は本当に殺伐とした社会になった。安倍政権の根本原理は「いぢめ」である。弱いものいぢめをしてそのことに相対的優位を覚え、それを気持ちがいいと感じる。嗜虐性。安倍政権の5年9ヶ月は社会全体がこの嗜虐性に淫していく過程だった。
 
 嗜虐性が引力であるような政体がこれほど長く続き、安定的な支持率を得てゐるということに、ぼくは深い哀しみを覚える。と同時に、なんとかこの現象を、そしてその中心にゐる安倍晋三という人間を理解せねばならないという切迫した気持ちがある。
 
 正直、ハムレットよろしく「世の中の関節は外れてしまった!」と叫びたい気分だ。
 一体どうなってるんだ?
 
 安倍政権を積極的に支持してゐる人も、消極的に支持してゐる人も、傍観してゐる人も、彼が主導してゐる政策と目指してゐる未来について、あまりにも楽観的過ぎるように思う(安倍自身、自分が日本をどう変えたか、あるいは変えつつあるかについてまともな認識を持ってゐるようには思えないが)。
 
 ずるずるずると、丁度、浮き輪にのって海に揺られてゐるうちに岸から遠く離れてしまうように、いかにも日本的に、そう、なし崩しに、なんとなく、抵抗を感じながらも、猛烈に反発する胆力もなく、ただ起ったことに黙って従うという国民道徳を健気に守りながら、やっぱり和が大事なんだなどとつぶやいてゐるうちに、ある日唐突に「こんなところに来てゐたのか」と驚愕し「こんなはずぢゃなかった」と、滑稽にも、無垢な叫びを上げる日が来るのではないか。
 
 迂闊にも「まあ、そこまで悪いようにはしないだろう」くらいに思ってゐる人が、どうも多すぎるようだ。ずいぶん沖に流されて陸地が見えなくなってゐるのに「みんな一緒だから大丈夫だ」と不安から目をそらしてゐるだけのように思える。先行きがあまりに不安で、国のあり方をどうしていいのか分からないから、本質的な問題から目を逸らしてしまう。そういう空気感が国民全体を包んでゐる。
 その中で安倍晋三のなりふり構わぬ対米従属と戦前的価値観への回帰が「マシ」に見えてしまうという政治的貧困が日本を覆ってゐる。かなり深刻だ。
 
 安倍晋三のことを考える時、ぼくがいつも困惑するのは、その凡庸さと彼が実際為しつつあることのギャップがあまりに巨大であることだ。彼はよくアホだバカだと糞味噌に言われるが、実際にぼくもそう思う。なかなかのクルクルパーだと思ってゐる。酷い言い方で申し訳ない。けれど、彼の言動を観察すると、どうしても知力の「だらしなさ」が気になってしまう。例えば2014年の春、彼は自身が主催する「桜を見る会」でこんな俳句を披露した。
 
 給料の上がりし春は八重桜
 
 これはないヨ。
 「給料が上がった」と、彼はどうしても経済政策の成果を誇示したかった。そして古語をひとつくらい入れて格調を高めたいから「上がりし」とした。最後に助詞「は」のもつ無限の包容力を存分に利用して「八重桜」を据えた。そうして金と桜が結びつくことになった。まことに絶妙なみっともなさであって、彼に風雅を尊ぶこころのないことがよくわかる。
 
 2014年の春、というと彼が政権に返り咲いてから1年と少しだ。この時点で彼の周りには「これまずいっすよ。〇〇って俳人につてがありますから、60点くらいの句をひとつもらってきます。それに変更しましょう」と言う人がゐなかった。あるいは安倍にそれを聞き入れる度量がなかった。現代の政治家が歌の名人であることなど誰も期待してゐない。ゴーストライターをつけったて誰も怒らないのだ。けれど、彼は「給料の上がりし春は八重桜」という句を発表した。
 
 既に多くの人が指摘してゐるように、彼に教養・知性が著しく欠如してゐること、そしてそれを恥じるこころのないことがこの選択からもわかる。いやそれどころか、ぼくはここに彼の憤怒を感じる。彼をこれまで苦しめてきた「教養」や「文化」に対して「こんにゃろ」とメンチを切る感じの卑小な憤怒を。
 
 彼の育ちのいいにこやかなドヤ顔が浮かんでくるほどに、この句は彼の人柄をそのまま映し出してゐるように思える。実際、ぼくが彼のことを理解しようと思い、彼の著作や評伝や演説を読んで抱いた感想は、この句をはじめて読んだ時のそれを一歩も出なかった。
 
「総理になった見栄坊」
 
 これである。見栄というのは中身がないから、自分に自身がないから張るものだ。彼の言説における「いわば」「まさに」の執拗な連呼、「みじんもない」「1ミリも動かない」「毛頭ない」「一点の曇りもない」等の強調表現の多用(それが彼を窮地に追い込むことさえあるのだ)はおそらく、見栄で支えられてゐる彼の自我を支えるための無数のフレームであるだろう。
 
 「君子豹変す」という。きちんと筋を通して理由を説明すれば「豹変」することは美徳になるものだ。しかし安倍にはそれが出来ない。というのも君子が豹変できるのは芯があり軸があるからだ。だから外側を組み替えて豹変しても彼の自我は壊れない。ところが安倍の中身は空洞であり、外側を「いわば」「まさに」で積み上げて、それを「一点の曇りもなく」「1ミリも動かない」ように固めてゐるものだから身動きがとれない。
 だから豹変せなばならない状況になったとき、つまり、現実が自己の改変を求めてくるときにどうするのかというと、屁理屈を言ったり模糊とした新しい言葉をもってきて、現実との整合性を取ってるっぽく見せるのである。この「〇〇っぽく見せる」という営みに安倍晋三は全力を注いでゐるように見える。あるいは彼の中で「〇〇ぽい」ことと「〇〇」であることはイコールなのかもしれない。
 
 彼が都合のわるい事を誤魔化す際の答弁はなかなかの芸であって、ほとんど全ての文節の頭に「いわば」か「まさに」を投入し、動詞のあとには「中において」や「ところでございまして」を付け加え、ところどころに野党の悪口を織り交ぜながら際限なく引き伸ばしていく。最終的な述語は何なのかと聞き手が待ってゐるうちに、いつのまにか最初に出たはずの主語が何だったかわからなくなってしまい、こちらが眉間に皺を寄せて辛抱強く聞いてゐると、お決まりの「いづれにしてもですね~」をいかにもウンザリしたような顔つきで出してくるものだから、こちらは「いづれってどの場合とどの場合だよ」と混乱するのだが、そんなことはおかまいなしに、不意に「と、このように考える次第でございます。」と、何かを答えたっぽい顔と余韻だけを残して席に着くのである。
 
 実際は「答えたっぽい」だけで、ただ屁理屈をこねくりまわしてゐるだけなのだが、議長はこれを咎めず、ジャーナリズムは「野党の批判をのらりくらしとかわした」みたいに書くものだから始末におえない。
 
 上に多少戯画的に書いた安倍の特異な用語法だけではない。この数年、安倍政権の面々は問題が起るたびに、筋の通った説明をせず、一貫して言語的詐術によって切り抜けてきた。そしてそれをジャーナリズムは放置してきた。結果、現実と言葉との結びつきが切れてしまった。これによって、日本人の現実認識力と思考力は著しく傷つけられたのではないかとぼくは考えてゐる。しまりなく呆然と流されてゐる感じがする。
 
 小さなウソ、ちょっとした欺瞞を「ま、これくらいは。野党もだらしないし」と肯定する。すると次に出てくる、前よりも僅かに大きなウソと欺瞞も同じように肯定してしまう。現実とは別の位相に絶対的な基準を持たないのが日本人の特徴だ。「起ったことを肯定する」を続けてきた結果、現実を客観的に把握するという姿勢そのものが失われ、「何でもどうでもいい」みたいな自暴自棄に突き進んでゐるように思える。
 
 一国の首相であり「美しい国、日本」の代表である人間を空洞と言ったり、クルクルパーと言ったりするのはよくないことだろうか。失礼な人格攻撃だろうか。実際、そんな風に考えて彼に対する批判者を疎ましく思ってゐる人がけっこう多い。彼らは別に安倍首相を積極的に支持してゐるわけではなく、非常に好意的にあるいは善意から、例えば以下のように考えてゐるのだろう。
 
 「逆風のなか二度目の総理に就任して以来、大きな反対を受けながらもたくさんの法案を通してきた。看過できない発言や失策も多いにしろ、これだけ長い間総理の座についてゐる。これは凄いことだ。バカっぽいところもあるけれど、本当のバカにこんなことが出来るか、きっと特別な能力と優れた資質があるんだ。だからこそ選挙に勝ってゐるんだ。あんまり貶してばかりゐるのはよくないよ」
 
 これはたいへん知的負荷の少ない考え方であって、現実を批判することに抵抗があり、「適応すること」を人生の第一則としてゐる人達(ということはぼくを含めてほとんどの日本人ということになるが)にかなり一般的なものである。実際、ぼくもそういう風に考えようとしたことがある。総理になる人だ、きっと何かあるんだろう、腐っても日本の首相だぞ、と。
 
 しかし、そこでぐっと踏みとどまって懐疑を働かせてみることが必要だ。
 
 ちょっと待てよ。確かに地位の高い人がそこにのぼりつめるためにはいろんな資質や能力が必要なんだろうけど、やっぱり「訂正云々」を「テイセイデンデン」と読んで気づかなかったり、ポツダム宣言をつまびらかに読んでゐなかったり、人の生死や戦争の話をしてゐるときに「大げさなんだよ!」と野次を飛ばしたりするのは相当ダメなのではないか、と。
 
 安倍晋三は知的にも倫理的にもかなり低い位置にゐる人で、最高権力者になるべき人格を備えてゐない。これははっきりと認めておきたいと思う。ひどいことを言うようだが、それは彼が総理大臣だからであって、彼が神戸製鋼所の課長なり部長であれば、問題にはならないことだ。
 考えるべきは、ボンクラでカラッポであることと、彼がこれまで為してきたその大きな実績との乖離だ。いくらなんでも、ちょっと差がありすぎませんか。この乖離の由縁と意味を考えることはとても重要なことのようにぼくは思う。たとえ気の利いた答えが出ないにしても。
 
 彼の支持率の高さやこれまでに為し遂げたことは、彼の能力・才覚、及び人格を大きく越えてゐる。あの凡庸さとあの人品骨柄でこれだけの実績を残すというのは普通は考えられないことだ。しかしその普通では考えられないことが実際に起こってゐる。とすると、その普通というやつを修正する必要があるのではないか。つまり彼の人気と実績は、彼がカラッポでクルクルパーであるところから来てゐるのだ、と理解するほかない。どういうわけか日本の政治システムと国民の意識はそういう風に機能してゐる。
 
 漱石の「三四郎」に登場する魅力的な先生「偉大なる暗闇」をもぢって言うならば、安倍晋三は「のっぺりとした空洞」だ。ぼくの考えでは、この空洞に流れ込んだいろんな「アンチ〇〇」の思想や情念が、そのまま最高権力者の地位につき、この国を押し流してゐる。重要なことは安倍は徹底的に空洞であって、そこに入り込んだ思想や情念を決して消化してゐないということだ。「アンチ〇〇」の「〇〇」にはリベラル・左翼・中国・朝鮮・敗者・弱者・少数者等いろいろなものが入るが、これら情念は安倍晋三というのっぺりとした空洞に入り込んだだけで全く血肉化されず、そのまま空気としてゐすわることになる。
 彼がゴリゴリの差別主義者や排他的国粋主義者から熱烈な支持を集めながら、ノンポリ層にはイデオロジックな相貌を見せず、ともすれば政界のプリンスであったり気のいい好々爺に見えてしまうのはおそらくそのためだ。
 
 ここで安倍の著書「新しい国へ-美しい国へ 完全版-」を参照して、彼の「アンチ〇〇」の思想の由来を見てみよう。
 
 「新しい国へ-美しい国へ 完全版-」は、彼が一度目に総理になる直前の2006年7月「美しい国へ」として上梓したものに、再び総理になった直後の2013年1月、終章として「新しい国へ」を追加して出版されたものである。まえがきによれば「『美しい国へ』で述べたことは、私の政治家としての根本姿勢です。それは、今も変ることがありません。その内容には一切手を加えておりません。」とのことだ。この書物を読むと、彼の「保守主義」というものが「アンチ〇〇」の別称であることがよくわかる。
 その第一章「わたしの原点」から引用する。
 
 小さなころから、祖父が「保守反動の権化」だとか「政界の黒幕」とか呼ばれていたのは知っていたし、「お前のじいさんは、A級戦犯の容疑者じゃないか」と言われることもあったので、その反発から、「保守」という言葉に、逆に親近感をおぼえたのかもしれない。 
                             新しい国へ 22項
 
 安倍晋三が母方の祖父・岸信介を敬愛してゐることはよく知られてゐる。両親が不在がちだった晋三少年は祖父に可愛がられて、その寂しさを埋め合わせてゐたのだろう。その祖父が悪く言われることに対する「反発から」、「保守」という言葉に、「逆に」親近感をおぼえた。安倍は資質として、生まれながらに負けん気の強さを持ってゐたのだろう。その資質は、自分を可愛がってくれる祖父を批判する勢力に対する反発によりエネルギーを与えられ大きく成長することになる。
 
 安倍の祖父・岸信介は戦前、日本がまだ大日本帝国であった頃に「大東亜秩序建設」のために働いた男だった。満州国総務庁次長を経て東条英機内閣の商工大臣を努め、敗戦後はA級戦犯容疑者として投獄された。が、起訴を免れて政界復帰に復帰し、米国の支援を受けて首相となり、1960年に新安保条約を成立させ「日米同盟」を戦後日本に定着させた人物だ。
 
 この経歴から明らかなように、岸信介は戦後日本の二つの性質を象徴してゐる。
 
 第一に「戦後処理の曖昧さ=戦前的価値観の継承」である。朝鮮併合から満州国の建設、さらに日米開戦へと突き進み、南はガダルカナルから西はインドまで、戦前の日本は際限なく戦線を拡大し、最終的には二つの原子爆弾を落とされるまで戦争を終わらせることができなかった。
 
 兵士は人を殺さねばならない、こっちが殺す以上相手も抵抗してくるのだから、自分が殺されるかもしれない。「人を殺してはいけない」という倫理を無効化し「自分が殺されるかもしれない」という恐怖に打ち勝つためには強力な大義が必要だ。大日本帝国が打ち出した大義が「アジアの解放=大東亜共栄圏の建設」というものだった。欧米帝国主義の圧制に苦しむアジア諸国を解放するための戦争であって、侵略でも植民地化でもない、みんなで天皇を戴く家族になるのだ。
 
 なるほど日本の驚くべき戦勝に勇気付けられた人達はゐたし、日本の支配下に入ることでインフラが整備されたり、教育が普及した地域は確かにあった。そういう面もある。しかしそういう面があるからといって、そういう面だけを全面に押し広げて「あの戦争は正しかった」と言うことはできない。対欧米列強という観点からは「解放」の意味があったかもしれないが、攻め込まれたアジアの側から見れば、総体として、やはりあれは侵略だったわけで、日本軍が現地で相当ひどいことをやったというのは否定しようのない事実だ。
 
 岸信介満州国の経営に携わり、日米開戦時の閣僚だった人間で、大東亜共栄圏構想は間違ってゐないと考えてゐた。日本を歴史上唯一の被占領に導いた戦前の国体に深くコミットしてゐた男だ。その彼が敗戦から12年後の1957年に首相になる。この事実は日本社会の「戦前との連続性」を象徴してゐると言っていい。
 
 次に第二の点。これは第一の「戦後処理の曖昧さ」の原因でもあるのだが、それは「冷戦構造下における日米安保体制」である。
 
 敗戦後、日本は自分たちの手で自国を破滅に導いた戦前の国体を解体し、指導者達を裁き、新しい国のありかたを構想・設計することができなかった。無念だが、戦争に負けるとはそういうことなのだろう。では何が起ったか。アメリカ(GHQが、マッカサーが)が戦後日本のかたちデザインした。日本の敗戦後まもなく米ソの対立が深刻化し、1950年には朝鮮戦争が始まる。その中でアメリカは日本を「反共の砦・後方基地」として利用することにした。そうして翌1951年にサンフラシスコ平和条約が結ばれる。
 
 この条約の性質を「単独講和」とか「片面講和」と言ったりする。全面ではなく片面。これは講和が冷戦構造の論理の中で行われてしまったために、その条件がアメリカの世界戦略に都合のいいものとなってしまい(沖縄は占領統治が続くことになった。故に条約が発効した4月28日は沖縄では「屈辱の日」と呼ばれる)、講和会議に呼ばれなかったり欠席したりする国々が多数でてしまったことを指す。
 
 例えば、朝鮮戦争中であった北朝鮮と韓国、そして中国は会議に招待されず、またソ連は調印を拒否したために、これらの国々とは別個に平和条約を結ばなくてはならなくなった。そして2018年現在、ソ連の後継国であるロシア及び北朝鮮とは未だに平和条約を締結できてゐない。その意味で、残された「片面」はまだケリがついておらず、あの戦争はまだ終わってゐない。
 
 講和条約と同時に結んだのが日米安全保障条約(旧安保)だ。これによりアメリカ占領軍は「駐留米軍」「在日米軍」などと名前を変え、米軍基地とともに日本に居残ることになった。この条約ではアメリカは日本防衛の義務を負わず、占領の継続という意味あいが強かったのだが、1960年に岸信介はこれを改定し(新安保)、日本を守る義務を明記した。「基地を貸す」条約から「基地を貸す代りに守ってくれる」条約に変更したのだった。
 たしかに条約の占領的性格は薄まったが、アメリカが世界戦略において日本を基地として利用するという基本的な性格は変わってゐない。また、米軍の扱いを定めた「世界一不平等な」日米地位協定は1960年から一度も改正されてゐない。
 
 安倍晋三が守ろうとしてゐるものは、祖父・岸信介が象徴してゐる上記二つのもの、「戦前的価値観」と「日米安保体制」である。この二つが彼の世界認識の前提であり、基準であり、教条である。この二つを守ることが「保守」であり、それに反対したり疑義を呈したりする人間に対して「反発」することが愛国心の発露である。安倍の言う「日本を取り戻す」とは「戦前的価値観を取り戻す」という意味であり、「日本を守りぬく」とは「日米安保体制を守り抜く」という意味だ。
 
 岸が新安保を成立させた10年後の1970年、条約の延長に反対する運動が各地で盛り上がった。高校生だった安倍が安保条約に反対する社会科の教師をやりこめたエピソードは有名だ。それを書く彼の筆致がなかなか奮ってゐる。同じく第一章「わたしの原点」から引用する。
 
 日米安保を堅持しようとする保守の自民党が悪玉で、安保破棄を主張する革新勢力が善玉という図式だ。マスコミも意図的に、そう演出していた。打倒する相手は、自民党の政治家だったわたしの父や祖父である。とりわけ祖父は、国論を二分した一九六〇年の安保騒動のときの首相であり安保を改定した張本人だったから、かれらにとっては、悪玉どころが極悪人である。
 高校の授業のときだった。担当の先生は、七〇年を機に安保条約を穿きすべきであるという立場にたって話をした。クラスの雰囲気も似たようなものだった。名指しこそしないが、批判の矛先はどうもこちらに向いているようだった。
 わたしは、安保について詳しく知らなかったが、この場で反論できるのは、わたししかいない。いや、むしろ反論すべきではないか、と思って、こう質問した。
「新安保条約には経済条項もあります。そこには日米間の経済協力がうたわれていますが、どう思いますか」
 すると、先生の顔色がサッと変わった。《岸信介の孫だから、安保の条文をきっと読んでいるに違いない。へたのことはいえないな》-そう思ったのか、不愉快な顔をして、話題をほかに変えてしまった。
 本当をいうと、そのときわたしは、条文がどんなことになっているのか、ほとんど知らなかった。でも、祖父からは、安保条約には、日本とアメリカの間で経済協力を促進させるという条項があって、これは日本の発展にとって大きな意味がある、と聞かされていたので、そっちのほうはどうなんだ、と突っかかってみたまでだった。
 中身も吟味もせずに、何かというと、革新とか反権力を叫ぶ人たちを、どこかうさんくさいなあ、と感じていたから、この先生のうろたえぶりは、わたしにとっては決定的だった。
                            新しい国へ 24項  
 
「決定的だった」と言うだけあって、彼の人性が実によく出てゐる文章だ。
「うさんくさいなあ」と感じてゐた先生に、自分も「条文がどんなことになっているのか、ほとんど知らなかった」けれど「そっちのほうはどうなんだ、と突っかかってみた」ところ、先生が不愉快な顔をして話題を変えた。その「うろたえぶり」が「決定的だった」という。
 
 語彙の選択も、行間に漂うドヤ顔も、抜かりなく下品だ。品格とか良識というものに対する「むかつき」が、おそらく彼の深いところにある。もちろん、高校生が先生を黙らせて悦に入るというのは、それ自体なんでもないありふれた話である。しかし問題は、そのつまらないエピソードを総理になる直前の彼がとても気持ちよさそうに、なんなら英雄的に書いてゐることだ(普通、「あのころは幼かったなあ」ぐらいのこと書かないかしら)。彼はそのことの幼児性にはおよそ無自覚であり、「(自分はよく知らないのに)突っかかって、黙らして、勝ち誇る」という態度のまま総理になった。そして権力の座について以降その性向がむしろ強まってゐる。
 
 はじめに安倍は「保守の自民党が悪玉で、安保破棄を主張する革新勢力が善玉」というマスコミが提供する善悪二元論を紹介し、この図式に反発するようなそぶりを見せる。ところが彼はこの単純な二元論を解除するためにより緻密な枠組みを提供するのではなく「(祖父は)かれらにとっては、悪玉どころが極悪人である」とむしろ強調してみせる。この書きぶりはどこか嬉しそうだ。
 
 「かれらにとっては、悪玉どころが極悪人である」と書くとき、彼は明らかに高揚してゐる。この高揚はヒロイズムへの予感からくるものだ。相手が酷ければ酷いほど、安心して「反発」することができる。「こんなに酷いことを言ってゐるマスコミ」に対して勇敢な憤怒を起動させ気持ちよくなれる。だから彼はすすんで二元論を強調する。
 
 繰り返すが、高校生ならそれでかまわない。しかし彼は代議士になってからも、総理になってからも、この手法ばかりを使ってゐる。まづ敵と味方をわける。そうして敵が「こーんなに酷いんです」という宣伝をして自分がいかにも少数派であったり被害者であるような印象工作を行う。そして「あえて」「逆に」といった強調の副詞と共に敢然と立ち向かう。相手が黙ると「勝った」ということにして、黙った側はほっぽらかしだ。およそ公共心というものがない。「勝つ」ことだけを優先するならばこうした戦法は有効かも知れないが、結果として国民の分断が深まるばかりで非常に有害なやり方だ。
 
 上記二つの引用から明らかなように、彼の思考様式は「反発」にある。祖父を批判してゐる「進歩派」「革新」と呼ばれる人達にたいする「うさんくさいなあ」という生理的嫌悪があり、彼らへの反発から岸の象徴する「戦前的価値観」と「日米同盟」を保守するという立場にすりよった。彼の感じてゐた生理的嫌悪の由来が「祖父が自分を愛してくれた」という温かな記憶によるものだとすれば、ちょっと胸の熱くなる話ではあるのだが、生理的嫌悪から来る反発だけで思考してもらっては困る。
 始まりは嫌悪感から来る反発であっても構わないが、人間の芯をつくり思想を形成するためには、そこから距離をとり、岸の側と反対者の側と、両方の思想とその由来について知的に把握しなくてはいけないだろう。
 
 国民の代表となるためには反対派としっかりと議論が出来なくてはいけないし、彼らの意見をも代表しなくてはいけない。そのためには自己の立場を客観視する抽象力がどうしても必要だ。しかし残念ながら、安倍がそうした知的努力に励むことはなかったようだ。内側で何かが深まったり熟成されたりして、人格と思想とがともに練り上げられるというような経験、すなわち成熟というものを、彼の文章や言動から感じ取ることは出来ない。
 
 参考に掲げた二つの評伝「安倍三代」「安倍晋三 沈黙の仮面」を読んで驚くのは、青年期の安倍の人畜無害ぶりである。彼自身の回顧では政治論をふっかけて先生を黙らせたりしたこともあったようだが、評伝の著者・ジャーナリストの取材によれば、安倍は学生時代・サラリーマン時代を通じて「普通のいい子」という印象しか周囲に与えてゐない。
 大学のゼミ生や教官は安倍のことを「覚えてゐない」とか「印象に残ってゐない」と言い、神戸製鋼所時代の上司は「政治的な話や議論はしたことがない」「普通のいい子、右派的な雰囲気はまったくない、後天的なものだ」「(政界入り後に)周りに感化されたんでしょう。まるで子犬が狼の子と群れているうち、あんなふうになってしまった」と述べてゐる。
 「安倍三代」の著者・青木理の筆致は辛辣だ。
 
 しかし、晋三は(祖父・寛、父・晋太郎、岸信介とは)違った。成育過程や青年期を知る人々にいくら取材を積み重ねても、特筆すべきエピソードらしいエピソードが出てこない。悲しいまでに凡庸で、なんの変哲もない。善でもなければ、強烈な悪でもない。取材をしていて魅力も感じなければ、ワクワクもしない。取材するほどに募るのは逆に落胆ばかり。正直言って、「ノンフィクションの華」とされる人物評伝にふさわしい取材対象、題材ではまったくなかった。 安倍三代 253項
 
 ぼくは青木氏の見解に同意する。「なんの変哲もない。善でもなければ、強烈な悪でもない」というのが安倍晋三という人なのだと思う。ぼくはそれを「のっぺりとした空洞」と呼ぶ。上記した当時の安倍を知る人の証言を信じる限り、学生時代にも会社員時代にも、その空洞に極右イデオロギーはまだ流れ込んでゐなかった。祖父を批判されたときに「こんにゃろ」と思う程度の「子犬」だった。ただアンチ〇〇というポンプがあるだけで、そのポンプは本格的に稼動してゐなかった。だからまだ右派的な雰囲気のない「普通のいい子」だった。
 彼がそのまま会社員を続けてゐれば、日本にとっても彼にとってもどれだけよかったろうと思うが、日本政治の世襲システムはそれを許さなかった。1982年、父・晋太郎が中曽根内閣の外務大臣に就任したのを契機に、晋三は秘書官になる。晋太郎に近かった元農水相鹿野道彦は晋三についてこんなふうに語ってゐる。
 
「(晋太郎は)バランスの極めていい政治家でしたが、安倍首相はあまりにも偏りすぎている。(晋太郎の)秘書官だった時はごく普通の好青年だったんです。強引なこととか、無理をするとか、自分の主張を強調することもなかった。お祖父さん(岸信介)の影響が強いのか、右の人の影響を受けすぎている気がしますよ。」 安倍三代 176項 
 
 秘書官時代にはごく普通の好青年だった晋三は右の人の影響を受けて、やがて極右イデオロギーの権化となりタカ派のプリンスへと成長する。1993年、父・晋太郎の死去にともない晋三は衆院選に出馬して初当選を果たした。ところがこの選挙で自民党は敗北し、結党以来初の野党となり、55年体制の崩壊を迎えた。安倍が代議士になったとたんに自民党は政権の座を失ったわけだ。
 
 80年代から90年前半はまさに「激動」という言葉に相応しい、大変革の時代だった。昭和が終わり、冷戦が終結し、バブルが崩壊した。同じころ、日本社会から「戦前を知ってゐる人々」が退場をはじめた。「押し付けられた憲法」に魂を吹き込み「平和国家」としての日本をつくりあげてきたのは「戦前を知ってゐる人々」だった。彼らが去り、冷戦構造が崩壊し、経済成長神話が崩れたとき、当然のごとく日本人はアイデンティティ・クライシスに直面することになった。「これまで通りのやりかたではうまくいかない、けれどどうしたらいいかわからない」なかで、模索を繰り返しながら失敗を重ねてきたのが平成という時代だった。
 
 模索とはまさに、安倍が議員になる頃に始まった新党ブームであり、政界再編であり、自民党の二度の下野だ。これまでに二度、非自民党政権が誕生したわけだが、いづれも短命に終わり、新しい国のかたちをデザインすることは出来なかった。とりわけ2009年、鳩山由紀夫率いる民主党による政権後退は「混迷を深めただけ」とか「単なる失敗」みたいな乱暴なくくりかたをされ、実際そうなふうな理解が国民のうちでかなりの程度共有されてゐる。
 
 では、「次のかたち」を生み出すことができたのかと言えばまったく逆だ。「どうしたらいいかわからない」がどんどん深まるのに対応して、それを覆い隠すようにして右傾化が進行し、復古主義が巨大化した。その過程で安倍は極右の思想(愛国的歴史修正主義)を吸収していったに違いない。そしてそれを待望する空気が日本社会にはあった。歴史認識拉致問題に関する彼のタカ派的な姿勢が国民に受けた結果、その人気が彼を総理にまで押し上げたのだ。日本が右傾化するプロセスと安倍晋三のキャリアアップとは見事な重なりを見せてゐる。
 
 安倍という空洞に流れ込んだ空気とは畢竟ずるに、「どうしたらいいかわからない」という不安をぶっとばせるようなヤケクソでナゲヤリな夢の集合のようなものだ。
 
 ヤケクソでナゲヤリな夢とは第一に「日米同盟を深化させることで、これからもアジア諸国に対して毅然とした態度をとることができる」というものであり、第二に「経済成長はまだまだ可能であり、経済成長が出来る限りは豊かな生活を享受できる」というものであり、第三に「日本人をこんな体たらくにしたのはアメリカが押し付けた憲法のせいであるから、日本国憲法を改正すれば日本人は自信と誇りを取り戻すことができる」というものである。
 
 野党が壊滅状態にあり、ジャーナリズムが腰砕けの状況で、「この道しかない」と言ってつきすすむ安倍政権の歯止めとなるような機制がどこにも存在しない。そういう状況が長く続いて、多くの国民は「この道」以外の方向性を考えることを放棄してしまったかのようだ。事実、「他にふさわしい人がゐないから」という理由で内閣支持率は高止まりを続けてゐる。
 
 しかしながら、安倍の導く「この道」をすすんでいっても、ぼくらは誇りを取り戻すことは出来ないし、美しい国が出来上がることもない。ぼくは冒頭に「安倍政権の5年9ヶ月は社会全体がこの嗜虐性に淫していく過程だった」と書いた。安倍とその支持者達は、自身のとり憑かれたヤケクソでナゲヤリな夢に同意しないものを攻撃する。「この道」以外の選択枝を探りたいという人達を「反日」「パヨク」と侮蔑する。彼らは多様性というものに耐えられないほどに弱い人達だ。
 
 自分が勝ったつもりになる、優位に立った気分になる。その際の、ざまあみろ的な嗜虐性が安倍政権の一番の引力だ。吸引力さえ保てればいいという発想だから、「弱いもの」を次々に攻撃する。例えば生活保護受給者であり、朝鮮人であり、障害者であり、LGBTの人達であり・・・。「誰かに迷惑をかけてゐる」とみなされた者は次々と攻撃の対象になる。こうした営みがどれほど国民の自由闊達な気風を殺し、国民精神を萎縮させてゐるかということについて彼らはまったく想像力が及ばないのだろうか。きっとそうなのだろう。「もの言う弱者」をいぢめる快楽をエネルギーにして彼らは志士にでもなったつもりで「この道」を進んでいくのだ。
 
 嗜虐性が最も悲惨なかたちで現実化した事件を取り上げて終わりにしたい。
 
 2016年7月26日、相模原市知的障害者施設「津久井やまゆり園」に元職員の植松聖被告(事件時26歳)が侵入し、19人を刺殺、26人に重軽傷を負わせた。犯行前の2月、彼は大島理森衆院議長宛てに犯行を予告する内容の書簡を届けてゐた。書簡の冒頭に「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」との宣言がある。彼によれば「障害者は不幸をつくることしかできない」人達であり「人類の為にできることを考えた答え」として犯行を決意したとのことだ。
 
 また書簡には「世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います」との言葉がある。彼は逮捕後 「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」と語っており、議長に届ける前には安倍に直接届けるために自民党本部を訪れたことがあった(警備を見て断念)。この経緯から、彼がそのメッセージを一番届けたい相手は安倍首相だったと考えるのが自然だろう。彼は権力者である安倍晋三が自身の思想に共感してくれる、だから守ってくれる。そう感じてゐた。
 
 植松被告が抱いてゐたような恐ろしい優生思想を、安倍が示したことはない。おそらく安倍はそこまで極端な差別思想を持ってはゐないし、それを積極的に煽動したことも、ぼくの知る限りない。しかし植松被告は、安倍が自分を守ってくれると思ってゐた。ぼくはこの事実は大変重いと思う。安倍は「障害者を抹殺することはよいことである」などとは考えてゐないし、その種の思想をほのめかしたこともない。ところが被告は安倍から「YES」というメッセージを受けてとってゐた。
 
 安倍にはそういうところがある。のっぺりとした空洞には嗜虐性を誘発するアンチ〇〇の思想がたくさん流れこんでゐる。前述のとおり、流れこんではゐるものの空洞はそれを吸い込んでゐるだけであって、安倍が消化して血肉化し、体系付けたり理論構築することはない。しかし彼が血肉化しようがしまいが、煽動しようがしまいが、嗜虐性の虜になった人達は安倍から、空洞に流れこんだ思想から、「YES」というメッセージを受けとってゐるのだ。恐ろしいことだ。
 
 障害者差別だけではない。あらゆる差別・いぢめ・ヘイトに関して「絶対にいけない」というメッセージを送ることに、安倍はもの凄く不熱心だ。人間の尊厳、基本的人権、男女平等といった「普遍的価値」を守るべきだという強いメッセージを安倍の言動や政治手法から感じとることはほとんど不可能と言っていい。
 
 どうしてあれほど不熱心なのだろう。本当に不思議に思うが、詰まるところ「ピンときてない」ということなのだと思う。空洞である彼には基準というものがなく、内的倫理の作用が恐ろしく鈍いか或いは存在しないのかと思われる。
 
 憲法違反の戦争法案を成立させたことや、臨時国会開催要求を無視したこと、公文書の隠蔽・改竄・破棄などなど「これは絶対にダメだろう」ということを、安倍政権はたくさん行ってきた。ぼくはもう、安倍政権は犯罪集団であると思ってゐる。
 彼らが実行しつつある最大の犯罪行為とは、彼らが権力を獲得し政策を実行するプロセスにおいて国民に見せ付けてきた「勝てば官軍」精神であり、負けたものは黙ってゐろという恫喝だ。その手法が差別やいぢめに「YES」と言ってゐるのだ。司法で裁くことはできないが、ここまで国民精神を萎縮させ荒廃させた彼らの政治手法は厳しく断罪されねばならないと思う。
 
 隣国韓国では今年、パク・クネ前大統領が懲役30年を求刑された。検察は重刑の理由を「被告人が憲政秩序を破壊し、国家権力に対する国民の信頼を損ねると共に、国家混乱と分裂を招いたにもかかわらず、真剣な反省や謝罪の意志がない」「峻厳な司法部の審判を通じて、悲劇的な歴史が繰り返されてはならないというメッセージを、大韓民国の為政者たちに伝える必要がある」などと説明してゐる。
 
 ぼくはこの言葉を日本の司法から聞く日を切に願ってゐる。安倍晋三が刑務所に入ったら、後世のために是非とも自伝を書いていただきたいと思う。ページ毎に朝日新聞の悪口が出てきたってかまわないから。