手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り🌴

翻訳 北朝鮮核問題:過去、現在、そして未来―中国の視点から―

北朝鮮核問題に関する論文を翻訳したのでアップします。

元中国外交部副部長の傅瑩史が今年5月3日、米ブルッキングス研究所に発表した論文「北朝鮮核問題:過去、現在、そして未来―中国の視点から―」https://www.brookings.edu/wp-content/uploads/2017/04/north-korean-nuclear-issue-fu-ying.pdf

原文は英語ですが、ぼくはどちらかと言えば中国語のほうが得意なので(そちらも怪しいが)以下の中国語訳を参考にしました。

朝鲜核问题:过去、现在和未来 - 四维金融-把握宏观经济大势 ,评析金融市场风云

論文ではありますが、一般向けの啓蒙的な内容となってゐて、講演の書き起こしでも読んでゐるような感じがしたので「です・ます調」で訳しました。

なお、仮名遣いは「現代仮名遣い」です。

 

 北朝鮮核問題:過去、現在、そして未来―中国の視点から―

                 中国全国人民代表大会外事委員会主任委員 

                 中国社会科学院グローバル戦略研究員 傅瑩 

                  2017年5月3日 米ブルッキングス研究所

 朝鮮半島の核問題は東北アジアの安全保障において最も複雑で最も不安定な要素です。そして現在、アジア・太平洋ひいては国際社会において高い注目を集めています。この問題がヒートアップするに随って、多くの人がこんな質問を投げかけるようになりました。「中国は北朝鮮核問題においてより大きな責任を果たし、核開発をやめさせることはできないのですか?」

 中国は2003年以来、アメリカの要請に応じて朝鮮半島の核問題において仲介を行い、また会合を主催してきました。発展途上国として、中国は平和五原則をかかげています(訳注:平和五原則とは領土主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)。半島の核問題という地域の安全に密接に関わる問題に対して、中国は核の拡散に断固として反対という立場をとっています。仲介の任を担うようになって以来、中国は朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と略)に対して核開発を中止するようはっきりと要求を行い、また関係諸国―とりわけ米国―に対し、北朝鮮が抱えている安全上の不安にしっかりと向きあうよう説得してきました。

 しかしながら米朝両国の間に横たわる深刻な相互不信は、長期の会合の末に到達した合意や協定の履行を困難にしています。中国は自らの責任を果たすため、懸命に仲介を続け、また国連安全保障理事会の決議に基づき、北朝鮮の核・ミサイル開発に対する制裁にも参加しています。しかし中国が米朝両国に対しそれぞれが責任を果たすべきだと説得してもそこに強制力はありません。

 中国は北朝鮮の安全上の不安を解く鍵をもっていませんし、彼らに核計画の停止を納得させるほどの強い影響力はないのです。そして北朝鮮から安全上の脅威と見なされているアメリカは、彼らが要求している安全の確保というこの核問題を解決するための前提を考慮する気がないように見えます。

 双方の主張が交わらないとき、半島の核問題は膠着し、北朝鮮は核開発プログラムを前進させます。彼らは2005年以来5度の核実験を行い、数えきれないほどの弾道弾発射実験を行ってきました。その間、国連安保理は制裁を強化し、北朝鮮を牽制するための米韓の大規模な軍事演習も耐えずスケールアップしてきました。結果、半島の緊張は高まり、平和的解決を目指す会合は再開されず、事態は危険水域に達しています。

 国際社会において主体となるのは国家であり、その国家は国際法により主権を賦与されています。強国は一般に強い影響力をもちますが、同時に自らの言動が引き起こした結果に対して責任を負はなければなりません。そして小さい、或いは弱い国が強国の圧力に対抗的なアクションをとる場合はそれなりの代価を払うことになります。

 国際情勢とは各国がある問題に対してとった行動とそれに対するリアクションが引き起こすうねりであるわけですが、そこに生まれた緊張はしばしば制御困難なものとなり我々を予期せぬ方向にひきずりこみます。ですから中国は対話による核開発問題の平和的解決こそが“パレート最適の選択”であると認識しているのです。関係者全員が望む最高の結果には到達できませんが、各方面が最小の代償を払うことで現実的な利益を最大化することができます。当然、アメリカ含む全関係者はそれぞれが担うべき責任を要求されますし、妥協も必要となります。目下、会談からは所期の成果が出てきていないわけですが、それはまさに合意事項がしっかりと履行されなかったからであり、その結果協議は停止してしまいました。

 地域の平和と安定を維持するため、過去においても未来においても、中国は朝鮮半島の非核化という立場を堅持します。そして半島の核問題は対話によって解決されるべきであると考えます。南北朝鮮は地理的に地続きであり共に中国の隣邦です。ことに北朝鮮とは1300キロの国境線を共有しています。半島で武力衝突が起これば地域全体の平和と安定を損ない、多くの無辜の犠牲者をだし、事態は収拾困難な方向に進むでしょう。過去数十年、この世界で行われた軽率な武力行使が与える教訓は極めて深刻です。

 本論考では北朝鮮の核問題を巡る近年の協議の経緯を整理してみたいと思います。それは三者会合から六者会合、協議の決裂を含み、そのうちのいくつかの出来事はわたし自身が当事者として関わったものです。

 読者諸兄が北朝鮮核問題の起源、そして関係諸国が行ってきた努力について理解するための一助となれば幸いです。なぜ状況はここまで悪化してしまったのか。なぜ、そしてどのように平和的解決への道が閉ざされてしまったのか。その経緯を回顧することが未来におけるより賢い選択につながって欲しいと願います。

 中国にこんな諺があります「鈴をはずせるのはその鈴をつけた人だけだ」。北朝鮮核問題という錆びた錠を開けるには、正しい鍵を探し出す必要があります。

 米朝枠組み合意”と第一次核危機

 北朝鮮核問題における中国の役割という観点からみれば、2003年は一つの分水嶺でした。それ以前、この問題はもっぱら米朝二ヶ国によって交渉が行われており、それは“米朝枠組み合意”に結実しました。2003年以降、中国が重要な斡旋の任を担い、多国間交渉の枠組みができあがりました。

 ではその2003年2月の米パウエル国務長官の訪中から物語を始めましょう。わたしは当時、中国外交部アジア局局長として応接にあたりました。パウエル氏の訪中には二つの重要な背景がありました。一つは2003年1月10日、北朝鮮が“核不拡散条約(NPT)”からの脱退を宣言し、第二次核危機が発生したこと。もう一つは、中東情勢の緊張が高まり、米国のイラクに対する軍事攻撃が目前に迫っていたことです(訳注:2003年3月20日、米英軍はイラクへの攻撃を開始した)。当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は中東と極東という二つの地域で同時に軍事的圧迫が高まることを避けるために、パウエル氏を派遣し中国に北朝鮮問題に関して協力を要請したのです。

 人民大会堂において、当時の胡錦濤国家副主席がパウエル国務長官一行と面会しました。パウエル氏は半島の核問題について中国による仲介を求め、又、北朝鮮を信用することはできないと言いました。そして多国間交渉での解決を探るために、中国が米朝両国を北京に招くというかたちでの協議を提案してきたのです。

 パウエル氏の訪中は第二次核危機を受けて行われたものですが、その危機がなぜ起こったかといえば、相当程度“米朝枠組み合意”が履行されなかったことが原因です。これが両国の関係を悪化させました。米国は、2003年を目標年として北朝鮮黒鉛減速炉及び関連施設を二基の1000メガワット軽水炉に置き換えるという合意を守りませんでした。北朝鮮も合意における全項目を履行したわけではありません。その背景には半世紀以上にわたる朝鮮半島の政治的動揺及びこじれもつれた関係国の利害があります。

 “米朝枠組み合意”という名称が示すとおり、米国と北朝鮮がこの問題の主役です。北朝鮮の核問題を根源から理解しようとするならば、法的にはまだ終結していない朝鮮戦争にまで遡って考えることが必要です。

 1953年7月27日板門店において、朝鮮人民軍最高司令官と中国人民支援軍司令官を一方に、国連軍総司令官を他方に、“朝鮮戦争休戦協定”と“休戦協定に関わる暫定補足協定”が署名されました。しかしこれはあくまで休戦協定であり、平和条約ではありません。つまり停戦はしているけれど戦争状態は続いているということです。これが、半島情勢が長期的に不安定である原因の一つです。

 休戦協定署名後、朝鮮半島北緯38度線軍事境界線として南北に分断されました。南の大韓民国(以下、韓国と略)は米国を主とする西側諸国の支援をうけ、北の朝鮮民主主義人民共和国のバックにはソ連を盟主とする社会主義陣営がつきました。朝鮮半島は冷戦、すなわち米ソ覇権争いの最前線となったわけです。米ソの力関係が拮抗していたときには、半島の情勢は比較的落ち着いていました。

 しかし半島の勢力関係は総じて南側が優勢を占めていました。韓国には米軍が駐留し、1957年からは戦術核兵器を含む攻撃用兵器が配備されました。前世紀90年代初頭の米ソ間核軍縮交渉の結果、米国はすべての核兵器朝鮮半島から撤去し太平洋軍の司令部が核による防衛を担うようになりました。

 冷戦初期において、外部からの巨大な危機にさらされていた北朝鮮は主にソ連に依拠し安全、経済、及びエネルギーの確保を図り、ソ連の支援のもとで限定的ではありますが核開発を進めていました。1959年、北朝鮮は核の平和利用を目的として寧辺(ニョンビョン)原子力研究センターを建設し、1965年には初めて2000キロワットの出力を有する小型の軽水炉を持つにいたりました。その後ソ連の専門家は帰国しています。

 ここでソ連には北朝鮮核兵器開発を支援する意図はなかったことを指摘しおいていいでしょう。彼らは核物理の知識を教授しましたが、ウラン濃縮技術やプルトニウムの生産方法などは提供しませんでした。

 80年代の初頭、北朝鮮は天然ウラン核燃料を使用する5メガワットの黒鉛減速ガス冷却炉の建設を開始しました。この反応炉が完成すれば1年に6キロの兵器級プルトニウムを生産することが可能です。

 米国が北朝鮮の核開発に注意するようになったのはこの頃からです。そして1985年、米国はソ連に圧力をかけ、北朝鮮に“核不拡散条約(NPT)”に加盟させました。それと引換えにソ連北朝鮮と経済、科学、及び技術協定を結び、新しい軽水炉を提供することを約束しました。ところがその後ソ連はその協定を履行せず、NPT加入後の北朝鮮も条約の規定には従わず、国際原子力機関IAEA)の核査察を拒否しました。

 90年初頭のソ連の凋落と解体そして冷戦の終結により、半島の勢力均衡は壊れます。後ろ盾を失った北朝鮮は極度の不安に陥り、“系統的な苦境”に面することになりました。ソ連からの経済援助を失った北朝鮮は工業生産も農業生産も大打撃をうけました。一方、韓国は70年代に発展軌道に乗り長期間にわたる高成長を維持していました。

 1991年9月17日、第46回の国連総会において北朝鮮と韓国の国連加盟が全会一致で承認されました。1991年はソ朝友好協力相互援助条約の期限でしたが、ソ連の継承国であるロシアは条約の自動更新を表明しませんでした(1994年に条約の廃棄が宣言されました)。1991年10月5日、北朝鮮金正日(キム・イルソン)国家主席が訪中し中国側の指導部とソ連崩壊以降の国際情勢及び対応策について議論しました。その時鄧小平はこのように述べました。中国は現下の情勢に対しては“観察に重点を置き、力を隠して、冷静に対応する”と。“目立たないようにする”ことが中国外交の基軸となりました。当時の中国はとうにソ連陣営から離脱しており、ソ連の崩壊を、かわって中国が社会主義陣営の代表となる機会だとは考えていなかったのです。

 続く1992年8月、中国と韓国は国交を樹立しました。当時中韓両国のあいだでは民間交流が急速に拡大していましたから国交樹立は自然の勢でした。しかし北朝鮮にとっては不満だったようで、失望と更なる孤立感を抱いたようでした。このときから中朝の高レベルの外交交流はほとんど途絶え、1999年8月最高人民会議常任委員会委員長の金永南(キム・ヨンナム)氏の訪中により回復しました。

 今日、当時の北朝鮮が感じていた深刻な危機感を十分に理解することはとても難しい。しかし90年代初頭の世界情勢の変化が、北朝鮮が“自分達の道を目指す”という方向へ導いたことは認識しておくべきです。その道の先に安全保障のための“核保有”という選択があるのです。ひとつ、軽視できない事実を指摘しておきます。ソ連/ロシアと中国が1988年のソウル五輪後、時勢に対応して韓国との関係を改善・発展させたということです。それと対称的に、停戦のもう一方の当時者であった米国は北朝鮮との関係を改善するためのはっきりした措置はとりませんでした。同盟国である日本も同じです。そうして相互承認と外交関係の樹立の好機を逸したわけです。

 1990年前後、米国は衛星写真を根拠として、北朝鮮が秘密裏に核開発を進めていることを発見しました。国際原子力機関IAEA)は核不拡散条約(NPT)に基づいて北朝鮮に対して核査察の受け入れを要請しました。1992年5月から1993年2月までの間に北朝鮮IAEA不定期査察を6度受け入れましたが、検査の目的にも結果にも同意しませんでした。1993年3月、米韓は1992年に中止した合同軍事演習(チーム・スピリット)を再開し、さらにIAEA北朝鮮に対して特別査察を要求しました。二重の圧力に逢着した北朝鮮はNPTからの脱退を宣言し、これが第一次核危機の契機となりました。同年4月1日、IAEA北朝鮮の査察受け入れ問題を国連安全保障理事会に付託しました。しかし北朝鮮側は、この核問題の本質は北朝鮮IAEAとの問題ではなく、北朝鮮と米国との問題と認識していますから、米国と交渉して解決するとの立場をとることになります。

 1992年米国では、民主党ビル・クリントン氏が大統領となりました。米ソ二大陣営が対抗する冷戦が終結した今、核兵器、及び大量破壊兵器の拡散こそが最も現実的かつ直接的な安全保障上の課題である。米国はそのように考えました。こうした文脈において、北朝鮮の核問題をいかに解決するかということがクリントン政権のアジア太平洋政策における最重要課題として浮かびあがってきたのです。米国は半島の情勢に対して再考を開始しました。

 米国では、圧力をかけて強硬姿勢をとるべきだとの考え方が支配的になったことがあります。1994年6月16日、米上院は議決を行い、クリントン大統領に行動を起すよう促しました。すなわち米軍は北朝鮮を抑止するための、又場合によっては撃退するための準備をすべきだというのです。しかし評価の結果米国は、北朝鮮に対して軍事行動をとれば韓国への報復攻撃を受け市民のうちに大量の犠牲者が出るとの認識にいたりました。まさに軍事オプションを検討しているその時、カーター元大統領がピョンヤンを訪問し、当時の最高指導者金日成と面会しました。カーターは北朝鮮側が核問題に関して米国との対話を望んでいるという意志を確認し持ち帰りました。この訪問はクリントン政権が態度を変え対話への道を選ぶきっかけとなりました。

 1993年6月から米朝両国はニューヨーク及びジュネーブにおいて、計3ラウンドの高官協議を開始し、協議は最終的に“米国と朝鮮民主主義共和国間の合意枠組み(米朝枠組み合意)”に結実しました。その主要な内容は以下のとおりです:北朝鮮は建設中の二基の黒鉛減速炉の建設を凍結する。引換えに米国は、国際事業団を組織又主導し、可能な限り早い時期に40億ドルに相当する2基の1000メガワット発電量の軽水炉を提供する。軽水炉が完成するまでのエネルギー補填のために、米国は北朝鮮に対して毎年50万トンの重油を供与する。

 上記のプロセスはほとんどが米朝二ヶ国の直接交渉であり、中国を含めその他の国は参加していません。

 “米朝枠組み合意”署名後、半島情勢は小康を得ました。しかし合意事項の履行は緩慢にしかすすみませんでした。米国はまず朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設立し、国際社会から資金を募り、北朝鮮のエネルギー不足改善のために重油提供を始めました。そして寧辺原子炉の8000本の使用済み核燃料棒が除去され封印されました。

 しかし米、日、韓協同の黒鉛減速炉の廃炉軽水炉の建設は遅々として進まず、結局実現されませんでした。

 クリントン政権は一期目において第一次核危機をうまく収束させたと言っていいでしょう。二期目に入ると政権はより接触を密にすることで核問題の根本的な解決を目指すようになりました。1999年10月、米政府は“米国の北朝鮮政策に対する評価:成果と提案”と題するレポートを発表し、その中で“包括的、統一的な方法で北朝鮮の核及び弾道ミサイル開発に対応する。二者協議を主とし、日韓を含めた三カ国が協同する”と述べました。ところが具体的に事態を進展させる段になると、いずれの国も十分な意欲と行動力を示さず、合意事項のほとんどの項目は実現されていません。

 クリントン政権の終盤、米朝関係の正常化への扉がわずかに開きました。2000年10月9日、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会第一副委員長の趙明禄(チョ・ミョンロク)が金正日の特使として訪米し、つづく10月23日、当時のオルブライト国務長官北朝鮮への二日間の歴史的な訪問を行い、北朝鮮の最高指導者金正日(キム・ジョンイル)と面会しました。オルブライト国務長官は滞在期間中、北朝鮮の指導部に対してクリントン政権米朝関係改善への意向を伝え、核問題及び北朝鮮を“テロ支援国家(訳注:テロ支援国家に指定されることは経済制裁の対象となることを意味する)”リストから削除する可能性について話し合いました。また連絡事務所の設置及びそこから外交上の代表機関に格上げしてゆくプロセス、そしてクリントン大統領訪朝の可能性などについても協議を行いました。

 オルブライト国務長官の帰国後米国はクリントン大統領の訪朝、さらには金正日の訪米に関して調整を進めましたが、その時期の米国は大統領選挙に突入していたために、レームダック状態にあったクリントン政権にはその構想を実現する時間がありませんでした。オルブライト氏の回想録によれば、ホワイトハウスを離れる前日、クリントン大統領は彼女に、ホイワトハウスに残って中東和平のために最後の力を注ぐよりも北朝鮮を訪問すべきだったと語ったそうです。何年かして私は彼女と意見を交わしましたが、あの時が核問題解決のための大きなチャンスだったのかもしれないと意見の一致をみました。惜しくも機会を逸することになりましたが。(訳注:クリントン大統領は任期終了直前、中東和平交渉に尽力していた。が、奔走は稔らず交渉は決裂に終わった)

 第二次核危機から三者会合、六者会合へ

 クリントン政権は自分たちが切り開いた対北朝鮮交渉の新局面を次期政権が継承することを望んでいましたが、2000年の大統領選挙の勝者共和党ジョージ・W・ブッシュ新保守主義者に包囲されていました。彼は選挙期間中から繰り返し“米朝枠組み合意”を批判し、又その矛先を北朝鮮政府にも向けていました。北朝鮮に歩み寄ろうとする政策は、かの政権を崩壊から遠ざけることにつながるのだという考えです。

 明らかに、米国の対北朝鮮政策において“核放棄”と“政権の崩壊”の混合が見られます。結果、一体究極の目標は何なのかということがしばしばぼやけてしまうのです。この変化は平壌政府にとっては理解し難いものでした。したがって彼らは、米国は当初から合意の履行に不熱心であったと結論付けることになったのです。

 ブッシュ新政権は対北朝鮮政策を見直し、クリントン政権が模索してきた関係改善への道を閉ざします。そして8ヶ月後の2001年9月11日、米国で同時多発テロが発生し、米国政府は“対テロ戦争”を宣言しました。

 ここで特記しておきたいのは、“9.11”後に北朝鮮外交部のスポークスマンが以下のような声明を発表しているということです。即ち:今回の事件は悲しむべき悲劇であり、国連加盟国として北朝鮮はあらゆる形式のテロリズムに反対する。この立場は不変である。

 この北朝鮮の反応は以前の強硬姿勢とは正反対のものでしたが、ブッシュ政権はそうした変化には一顧もあたえず、2002年1月の一般教書演説において北朝鮮をイラン、イラクと共に“悪の枢軸”国として名指して批判しました。

 2002年10月、アメリカの情報機関は北朝鮮が秘密裏に進めている核計画を発見したと発表しました。北朝鮮が国際マーケットにおいて技術及び設備を購入したという証拠を掴んだとして、北朝鮮パキスタンとの秘密核貿易の証拠を暴露しました。ブッシュ政権はジェイムズ・ケリー東アジア・太平洋担当国務次官補を急遽北朝鮮に派遣します。彼は当時の姜錫柱(カン・ソクジュ)第一副外相との会談で、ウラン濃縮技術用設備を輸入した“証拠”をつきつけます。姜は隠そうともせずに一切が事実であることを認めました。

 この件はワシントン政府を驚かせました。北朝鮮プルトニウムを原料とする核開発の停止を宣言しながら、裏ではウランを原料とする核兵器を開発していたのですから。ブッシュ政権北朝鮮が“米朝枠組み合意”を違反したとして二者協議の停止を発表します。他方、北朝鮮は、米国側も合意事項のすべてを履行したわけではないとみていました。

 こうした両国の関係の悪化がそのまま第二次核危機へとつながっていきます。

 時を同じくして、米国は同盟国を率い東シナ海黄海、インド洋においてPSI(拡散に対する安全保障構想)海上阻止訓練を開始しています。2002年12月、イエメン近海でスペイン海軍の臨検を受けた北朝鮮籍の貨物船“小山号”からスカッドミサイルが発見されました。イエメン政府がミサイルの国内のみでの使用と、以降の不購入を保障したことで最終的に貨物船は開放されました。これが“小山号事件”です。

 同年11月14日、米国主導による朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)は北朝鮮向けの重油提供の停止を決定しています。北朝鮮は米国の重油供給停止を合意違反であると認識し、12月12日、“米朝枠組み合意”に基づいて凍結していた核開発を再開すると発表します。そして2003年1月10日、北朝鮮は核不拡散条約からの脱退を正式に宣言しました。

 核不拡散条約の締約国として、中国はいかなる形式の核兵器の拡散に対しても断固として反対し、一貫して核兵器の全面禁止と廃絶を主張してきました。同時に、隔たりや齟齬の平和的解決を訴えてきました。“米朝枠組み合意”が破綻し、その上で米国が中国の仲介を希望し、助力を求めてパウエル国務長官を訪中させたという経緯を鑑み、半島の非核化は中国の国益に資するとの判断に至り、中国政府は米国の要望を引き受けることを決定しました。

 われわれの案は米朝両国を中国に招き三者会合を行うというものでした。パウエル訪中後の2003年春、中国は北朝鮮に特使を派遣します。北朝鮮との交渉は決して簡単なものではありませんでしたが、三者会合への参加をとりつけました。しかし北朝鮮の態度は基本的には変化がなく、やはり米国との直接交渉を望んでいました。それはピョンヤン政府が、この核開発を米国の脅威に対するリアクションであると認識し、解決のためには直接交渉による合意に至る必要があると考えているからです。

 中国は北朝鮮の考えと要求を米国に伝えました。米国は二者のみでの会合はできないとの立場を譲らず、いかなる会合も中国立会いの場でなくては行わないと主張します。米朝双方の要求はまったく噛み合いません。中国は“対話”を根本原則としてかかげ、粘り強い交渉を続けました。そして米朝両国が中国へ代表を派遣し会合をもつという合意に至ることができました。両国は三者会合という枠組みの中で相見えることになったのです。

 2003年4月22日、中国外交部は以下のような声明を出しました:“中国は一貫して北朝鮮核問題の対話による平和的解決を主張してきた。これは関係諸国及び国際社会のコンセンサスとなっている。こうした認識に基づき北朝鮮と米国の代表団を中国に招き会合を行う運びとなった。”

 中国の積極的な働きかけにより関係諸国が交渉のテーブルに戻ってきました。2003年4月から2007年10月にかけて1ラウンドの中国、米国、北朝鮮による三者会合が、又そこに韓国、日本、ロシアを加えた6ラウンドの六者会合が開かれました。その過程は曲折に富んだものとなりましたが、概して北朝鮮の核開発状況をコントロールの範囲内においておくことができたと言えるでしょう。六者会合において成立した三つの文書―2005年の“9.19共同声明”、2007年の“2.13共同文書”及び“10.3共同文書”―は対話による平和的解決に向けた重要な政治的基礎となりました。しかし残念なことに、問題解決に対する希望を抱かせたこの合意は様々な事情から履行に到らなかったのです。ではなぜ、又どのように交渉は決裂し、時の経過とともに解決から遠のき、互いが緊張を高めあうような局面に陥ってしまったのでしょうか。その経緯を以下に述べたいと思います。

 三者会合

 2003年4月23日から25日にかけて、中米朝による三者会合が北京で開催されました。筆者は当時中国外交部アジア局局長の位にありましたので中国側の代表団を率いて会合に参加しました。北朝鮮は李根(リ・グン)外務省米州副局長氏が、米国はジェイムズ・ケリー東アジア・太平洋担当国務次官補がそれぞれ代表を務めました。

 しかし会合の正式な開始の前に早くも難局を迎えることになりました。ブッシュ大統領は米国の代表団がいかなる形式においても北朝鮮側と二者のみで会ってはならないとの命を下したのです。一方、北朝鮮側は米国との二者会談の機会をもちたいと願っています。三者会合の前夜は中国主催の夕食会があり、米朝の代表が共に出席しました。宴席上で北朝鮮代表の李根氏は献酬の機会をとらえてケリー氏に近づき、直接話を切り出しました。北朝鮮はすでに使用済み核燃料棒の処理を行ったと伝えたのです(訳注:使用済み核燃料の処理とはプルトニウムの抽出を意味する。プルトニウム核兵器の原料)。

 ケリー氏はその話をわたしに伝え、動揺した様子で、対応方法についてワシントンの指示を仰ぐ必要があると言いました。翌朝、米国代表団は北朝鮮側と単独での接触はもたない、中国臨席のもとでなければ協議を行わないと宣言しました。北朝鮮側はこれをうけて三者会合への出席を取りやめるとの意志を示しました。中国側の再三の説得により、北朝鮮側は翻意し会合は実現しましたが、その内実は中国が米国及び北朝鮮と別々に話をするというかっこうになったのでした。

 三者会合は稔り豊かなものとはなりませんでしたが、それでも米朝両国が協議の席に戻ってきたことで、国際社会に対話の可能性を示すことができ緊張が和らいだのは確かです。北朝鮮は核及びミサイル開発の放棄と引換えに経済援助と体制の保障を得るという“一括妥結方式”による解決案を提示しました。この案は北朝鮮の基本的な立場と思考法を体現しており、実際、以降の会合において持ち出される案の基礎となりました。

 韓国と日本も、そして国際社会も三者会談に高い関心をよせました。米国は多国間交渉を望み韓国と日本を協議に招きいれようとしました。中国はさしたる支障も感じませんでしたが、ロシアも参加したほうがよいと考えました。中国は注意深い外交を展開し、各国の要望を聞き、仲介活動に尽力しました。

 核問題に関して、北朝鮮の立場は一貫しています。即ち、北朝鮮はもはや米国は信用できないと考え敵視政策をとり、核兵器の開発によって自国の安全を保障しようとしているのです。中国は北朝鮮の核保有に断固として反対します。しかしながら彼らが感じている安全上の不安は理解できます。したがって多国間交渉によって平和的交渉を進めることを支持し、積極的に斡旋の任を引き受け多くの会合を提供できるよう責任を果たしたいと考えています。

 ソ連の解体以降、中国は北朝鮮の最も重要な同盟国且つ支援国となっています。北朝鮮は両国の友好関係を維持したいと考えており、中国からの提案を断ることは容易ではありません。しかし米国はとても頑なでありブッシュ政権の方針は、軍事オプションは保持しながら協議における北朝鮮の出方をみようというものでした。中国は米国に対して北朝鮮の希望を伝え、また我々自身の立場もはっきりと説明しました。即ち、中国は軍事的解決を目指すいかなる試みにも反対であり、平和的対話を通じて核問題の解決及び妥協案を模索すべきであるとの立場です。

 ここからわかるように、米朝ともに二つの方向性があるわけです。米国は、対話してもいいが、成果がなければ攻撃。北朝鮮は、対話して見返りが欲しい、それが不可能ならば自国防衛のために核開発。そして中国は全力で対話を支持促進し、両国がとりうる別の方策には断固として反対です。

 筆者がかつて米国を訪れた際、米国側がこんな表現をしていたのを覚えています。“対話は行う。しかし軍事オプションもテーブルの上にある(We agree to talk, but the military option is also on the table.)。”中国側は、米国が軍事オプションを手放さないならば、北朝鮮は核保有を決して諦めないだろうとの認識から同意できない旨を伝えました。その後、米国は文言に若干の修正を加え、“軍事オプションはテーブルから離れていない(The military option is not off the table.)”との表現に変えてきました。修正前の表現と大きな差はないように感じられましたが(英語を母語としない人にとっては特に)、米国側はこれが大統領の意志であると言って譲りませんでした。筆者はかつてアメリカ人の同僚に向かって冗談でこう言ったことがあります。「テーブルから離れておらず、それでいてテーブルの上にはないとすれば、いったいどこにあるのかしら?」同僚は「想像力を働かせよということでしょうかね」と答えました。この話を北朝鮮の交渉相手である李根氏に伝えたところ、彼は大きく眼を見開いてこう言いました。「で、どこにあるのですか?」

 2003年7月、長らく北朝鮮と外交交渉を行ってきた戴秉国(タイ・ヘイコク)外交部副部長が特使として北朝鮮と米国を続けて訪問しました。彼は米国の対話への意志、又それを六ヶ国に拡張したいという希望を北朝鮮側に伝えました。長時間に及んだ高官協議の末、彼は金正日に接見しました。そのとき金正日は以下のように語り同意を表明しました。「友人である中国が協議参加をすすめるなら、わたしたちももう一度挑戦してみようとおもう」

 この訪問の結果、米国はできるだけ早く対話のための代表団を北京に派遣することに同意しました。形式として米国は韓国と日本の参加を望み、又ロシアも参加させるべきだという中国の提案に対しても反対しませんでした。又、米国は北朝鮮が望むなら三者会合の機会を改めて設けてもいいとも言いました。ただし続けてすぐに六者会合を行うことが条件でした。この提案に対する北朝鮮の回答は速やかでした。北朝鮮は会合の拡張はまったく問題がない、直接六者協議に入ろうと提案してきたのです。

 しかしながら、核問題というデリケートな問題をあつかう場であること、また米朝の真っ向から対立した立場などから具体的な会合の設定は極めて難しく、会場のデザインや座席の按配にも慎重な注意を払う必要がありました。北京の釣魚台迎賓館が会場に選ばれました。六ヶ国の微妙な関係を考えると長机に対面に座ることはできませんから、六角形の机を用意しそこに席を並べることにしました。

 更に気を使ったのは、いかにして米朝の二者が協議を行える場を設定するかという問題でした。北朝鮮米朝間の直接対話を重視しており、独立した部屋で接触することを望んでいます。一方の米国は離れた場所で会うことは拒否し、他国の代表と同じ屋根の下にいる状況でなければ接触しないという立場です。最終的にわたしたちは、会場の角に喫茶用の休憩スペースをつくることにしました。屏風と観葉植物とソファーで空間を区切り、米朝代表団のための隔離スペースをつくりました。

 北朝鮮と米国の大使館員にこの隔離スペースをチェックしてもらい了承を得たことで最後の障碍がクリアできました。

 結果を申しますと、この試みは成功し、六者会合も後半に入ると米朝間の対話は深く且つ重要なものとなり、彼らはすすんで別室に入るようになりました。

 六者会合

 2003年8月27日から29日まで、第一回六者会合が北京で開催されました。当時の李肇星(リ・チョウセイ)外交部長が開会の宣言を行い、王毅(オウイ)副部長が代表団長を務めました。各国の代表者は以下の通りです:米国はジェイムズ・ケリー国務次官補。北朝鮮金永日外務次官。ロシアはアレクサンドル・ロシュコフ外務次官。韓国は李秀赫(イ・スヒョク)外交通商部次官補。日本は藪中三十二外務省アジア大洋州局長。

 北朝鮮は“一括妥結方式”による4段階の解決案を改めて提示しました。それぞれの段階はすべて米国の“同時行動”を求めるものでした。しかし米国はそれに同意せず北朝鮮がまず第一歩を踏み出すべきであり、体制の保障を議論するのは“完全かつ検証可能で逆戻りできない核廃棄(Complete,Verifiable and Irreversible Dismantlement=CVID)”が実現してからだと主張しました。

 ここでその年の暮れリビアが発表した声明に言及しておきたいと思います。これは後の六者会合に大きな影響を与えたと考えられるからです。2003年12月、リビアの最高指導者ムアンマル・アル=カッザーフィーはすべての大量破壊兵器を放棄しIAEAによる査察を受けいれると発表しました。リビアは核開発の全研究成果を引き渡しました。米国はそれに応じて対リビア制裁及び“テロ支援国家”指定から解除し、外交関係を樹立しました。

 一時、リビアは西側諸国にとって核不拡散の模範生となりました。米国はこの経緯が北朝鮮に影響をあたえることを願っていたのかもしれませんが、8年後のリビア内戦及びその結末は、北朝鮮の核開発に対する態度に深い影響をあたえました。(訳注:2011年リビアにおいて、反政府デモから内戦が勃発。米英仏を中心とした多国籍軍が軍事介入を行い、40年以上続いたカダフィの長期独裁政権が崩壊した。核を放棄すると攻撃されるということを北朝鮮は学んだ。)

 2004年2月25日から28日まで、第二回六者会合が北京で開催されました。協議の焦点は核問題の解決と第一段階の措置でした。協議中、米国は北朝鮮リビアと同じく、まず核計画を放棄しIAEAの査察を受け入れるべきだとの主張を行いました。中国、ロシア、韓国は“ウクライナ方式”を提案し、北朝鮮が核放棄に動きだすならばその主権と安全を保障しなくてはいけないと主張しました。(訳注:ウクライナ方式。ソ連崩壊後、ウクライナには大量の核兵器が残され、一時は世界第三位の核保有国となった。ウクライナは米英露と協議を行いNPT加入と全廃を決め、代償として自国の安全保障体制の確立を求めた。各国は領土含め国家の安全を保障し、1996年までにウクライナ核兵器を全て廃棄した。が、2014年プーチンのロシアはクリミア半島を併合した)

 第二回会合では初の文書として議長総括が発表されました。総括では各国が半島の非核化を目標とし、対話を通じた平和的解決を目指すことが強調されました。又、すべての参加国が平和的共存を願い、核問題に対して協調して対処してゆくことに同意しました。

 同年6月23日から26日まで、第三回六者会合が開催されました。北朝鮮は“凍結及びそれと引換えの補償”という立場を崩しませんでしたが、初めて最終的な核廃棄を目的とした凍結であることを表明しました。米国も一定の柔軟性を見せ、五段階の核廃棄案を提案しました。第三回会合では実質的な合意には達しませんでしたが、最後には“漸進的に協議を進める”“約束対約束”“行動対行動”の原則で核問題に対処するという共通認識を確認することができました。これは中国が六者会合の開始以来主張し続けてきたことです。米朝両国は互いに、同時に、一歩を踏み出すべきであると。

 第四回六者会合の開催は第三回から十三ヶ月も間隔があいてしまいました。会合が中断してしまった主たる理由はブッシュ大統領の再任選挙でした。彼はより強硬な姿勢をアピールしたいがために北朝鮮の指導者を“暴君”と呼び、ピョンヤン政府を“圧制の拠点”であるとしました。ピョンヤン政府は米国の変化を懸念しました。もう一つの理由は2004年9月初め、韓国が秘密裏に兵器級プルトニウムの抽出とウラン濃縮を行っていたことを認めたことです。そしてIAEAはこの韓国の挙動に対して何のアクションもとりませんでした(訳注:2004年9月13日、IAEAエルバラダイ事務局長は“深刻な憂慮”を表明している)。北朝鮮はこれに対して強い反応を示しました。2005年2月10日、北朝鮮核兵器保有を宣言し、六者会合への参加を無期限に中断すると発表しました。これに対して米国は6月末、初めて経済制裁に踏み切りました。

 中国のシャトル外交等による外交努力が功を奏し、北朝鮮は六者会合への復帰に同意しました。第四回六者会合は二つのフェーズにわかれて北京で開催されました。第一フェーズは2005年7月26から8月7日、第二フェーズは同年9月13日から19日までです。長丁場の会合は大きな収穫をもたらしました。9月19日に発表した“第四回六者会合共同声明(以降、9.19共同声明)”がそれです。

 これは参加各国の認識を反映した極めて重要な文書であり、ここにおいて北朝鮮は初めて核兵器及び現行計画の放棄を約束し、韓国もまた核兵器開発を行わないことを表明しました。米国は適切な時期に軽水炉の提供に関して協議を行うことに同意し、又米国と日本は国交正常化のための措置をとることを約束しました。そして朝鮮半島及び北東アジア地域全体の平和と安定の構築について初めて言及がなされました。

  “9.19共同声明”は問題解決へのロードマップとして、一筋の光明であったかに思えたのですが、声明発表後まもなく米国によってなされた北朝鮮に対する経済制裁の強化によって、その光はあっけなく途絶えてしまいました。

 2005年9月23日(訳注:これは9月15日の誤りではないかと思われる)、ということは六者会合と同時期に、米国財務省は事前の警告なく、マカオのバンコ・デルタ・アジア(BDA)が北朝鮮の複数の口座を介して“マネーロンダリング”及び“偽札流通”に関与した疑いがあると批判しました。発表によればその資金は“テロ支援”のために使用されていたとのことです。少し前の9月9日、米国はBDAに対して2500万ドルの北朝鮮関連口座を凍結するよう要請しています。米国は10 月21日には北朝鮮の8企業をブラックリストに登録し在米資産を凍結しました。表面的には核問題とは直接関係があることではありませんが、これは核問題の協議に対して大きな影響を与えました。

 11月9日から11日まで第五回六者会合の第一フェーズが北京で開催され、北朝鮮も約束通り参加しました。しかし第一フェーズ終了後の12月、米国は更なる金融制裁を実施しました。米国による制裁の強化をうけて、北朝鮮は公式に、米国が経済制裁を解除しない限り、六者会合には復帰しないと宣言しました。しかし米国は手をゆるめず、2006年4月米国財務省は逆に更なる制裁を追加しました。

 事ここに至って、六者会合による合意が実現に至る可能性が潰えてしまいました。まさに、現在の我々がよく知るところの“制裁、核実験、追加制裁、再核実験”という悪循環がはじまったのです。米国がいくら制裁を加えても、北朝鮮の核開発を止めることもスローダウンさせることもできませんでした。2006年7月5日、北朝鮮日本海に向けて7発の弾道ミサイルを発射し、また、10月9日北朝鮮は地下核実験に成功したと発表しました。

 2006年10月14日、国連安全保障理事会は米国の提出した決議1718を全会一致で採択しました。決議は全国連加盟国に対して、北朝鮮への核兵器、核技術、大型兵器に関わる物品、奢侈品の禁輸を要請しました。そして北朝鮮に対しては、核実験の停止と、弾道ミサイル開発に関するあらゆる活動の停止を要求しました。

 2006年10月、中国は国連加盟国と協調しながら、平和的解決へ向けて調停の道を探り続けました。そして11月、北朝鮮は六者会合への復帰を宣言しました。同時に、米国では中間選挙が行われ上下両院において民主党過半数を獲得、これによりいわゆる新保守主義勢力は退潮をはじめ、ブッシュ政権北朝鮮への強硬姿勢を軟化させます。

 2006年12月18日から22日に第五回六者会合の第二フェーズが、そして2007年2月8日から13日に第二フェーズが開催されました。協議の最大の成果は“共同声明の実施のための初期段階の措置(以降、2.13共同文書)”を採択したことです。この文書では多くの措置が平行してとられることが表明されました。即ち、北朝鮮は核の廃棄を最終目標として寧辺の核関連施設の停止及び封印を行い、核開発プログラムの放棄を宣言すること。米国と北朝鮮は協議を行い、テロ支援国家指定からの解除を行う。ここにおいて、北朝鮮が全核開発プログラムの放棄という項目が入ったのはとても大きな前進でした。

 “2.13共同文書”の署名後、朝鮮半島情勢は少し落ち着きをみせ、北朝鮮と韓国のあいだで閣僚級協議が復活し、2007年3月1日には国際原子力機構のモハメド・エルバラダイ事務局長が訪朝し、寧辺の核関連施設の停止及び封印に関する詳細について協議を行いました。同日、北朝鮮の金桂冠(キム・ゲグァン)外務次官が“雪解け”の訪米を行い、米朝国交正常化のための協議に出席しました。このようなことはこれまでありませんでした。

 しかし、北朝鮮に対する制裁が“9.19共同声明”と“2.13共同声明”の履行の障碍となりました。北朝鮮寧辺各施設の閉鎖は制裁の解除が前提であると主張しましたが、米国は拒否しました。

 2007年3月19日から22日まで、北京で第六回六者会合の第一フェーズが開催されました。米国は凍結されているバンコ・デルタ・アジア銀行(BDA)の北朝鮮資金を中国銀行に移すことに合意し、北朝鮮はその資金を人道主義・教育のために使用すると表明しました。残念なことに、いくらかの“技術的問題”のために、その資金の中国銀行への移動は行われませんでした。北朝鮮は、自分たちは義務を完全に履行しているが、米国側は合意の一部を実施しなかったと認識し、BDAの資金問題が解決されない限り“さらなる合意の履行はない”と宣言しました。6月25日、この資金問題は解決され北朝鮮は再度“2.13共同文書”の履行を開始しました。7月14日には寧辺の核施設が閉鎖され、韓国の提供による6200トンの重油北朝鮮に到着しました。同時にIAEAの監査員が監督及び閉鎖の確認のために寧辺に入りました。ここにおいて、北朝鮮の核問題解決のためのとても意義深い一歩が踏み出されたのです。

 2007年9月1日、米国と北朝鮮の作業部会がジュネーブにおいて会談を行いました。そこで北朝鮮は全ての核計画の中止と原子炉の無能力化をする意志があることをはっきりと表明しました。米国は“テロ支援国家”リストからの削除を承諾しました。しかし9月25日の国連総会においてブッシュ大統領は演説を行い、北朝鮮含む数ヶ国を“残酷な体制(brutal regimes)”として批判し、米国の北朝鮮への敵視政策が続いていることを示しました。

 2007年9月27日から10月3日まで、第六回六者会合の第二フェーズが開催され、六ヶ国は“共同声明の実施のための第二段階の措置(以降、10.3共同文書)”に署名しました。この文書では“核施設の無能力化”と“全ての核計画の申告”に主眼がおかれ、北朝鮮に二点の要求がなされました。一、寧辺の5メガワット実験炉、寧辺の再処理工場(放射化学研究所)及び寧辺の核燃料棒製造施設の無能力化を行うこと。二、2007年12月31日までに、2月13日の成果文書に従って、すべての核計画の完全かつ正確な申告を行うこと。さらに文書には米朝、日朝関係に関して改善を目指すべきことが明記されました。11月5日、寧辺各施設の無能力化作業が開始されました。

 しかし2008年に入って、北朝鮮はまた躊躇しはじめました。核反応炉の無能力化は75%まで進展していましたが、それに応じた他国から見返り、すなわち重油、設備、援助物資が提供されなかったからです。2月に入り北朝鮮は無効化の速度を緩めました。

 ここへきて北朝鮮の行いがまた論争の焦点となりました。米朝の主張の違いは主に以下の点にありました。プルトニウム保有量、ウラン濃縮計画の有無、そして核開発に関するシリアとの協力。これらの点に関して紛糾した議論が障碍となって、北朝鮮は期限であった2008年1月1月までの核計画の完全な申告を履行しませんでした。

 各国は再び協議を始めました。又米朝二国は2008年の3月及び4月にジュネーブそしてシンガポールで会合をもちました。そこで北朝鮮は核開発計画の申告と停止に、米国は“テロ支援国家”指定の解除に同意しました。北朝鮮は合意の通り、寧辺原子炉の稼動記録を米国にわたしました。これに基づいて米国はプルトニウムの抽出量を算出することが可能です。米国はこれを“重要な一歩”だと評価しました。米国側の義務は、45日以内に北朝鮮を“テロ支援国家”から解除することでした。

 しかし北朝鮮が記録を提出したまさにその日、米国のライス国務長官ウォール・ストリート・ジャーナル紙上において、“核申告内容の検証”の問題を取り上げました。これに対して北朝鮮は“10.3共同文書”には“検証”に関するいかなる項目もないとして強く反発しました。期限である45日を過ぎても米国は北朝鮮を“テロ支援国家”指定の解除を行いませんでした。これを受けて北朝鮮は“原子炉無能力化の過程を暫時停止し、寧辺の核関連施設を現状に戻すことも視野に入れる”としてIAEAの監査官を追放しました。半島情勢の緊張は10月の初め、米国のクリストファー・ヒル国務次官補が北朝鮮を訪問するまで続きました。彼の訪朝によって両国は以下の合意に達しました。すなわち、米国は北朝鮮を“テロ支援国家”指定から解除すること。そして、北朝鮮は原子炉の無能力化を再開し、その検証についても受け入れる意志があることを表明しました。

 このように六者会合は数多くの難題を抱え様々な障碍に直面しながらも、少しずつ前進してきたのです。確かに朝鮮半島は安定に向かっていました。参加国は半島の非核化を目的とするという点において一致しており、問題は平和的に解決するという方向性を共有していました。

 しかし不幸なことに、このプロセスは頓挫してしまうのです。

 深刻化する北朝鮮核問題―2009年から現在まで―

 2017年の5月までに、北朝鮮は5度の核実験を行いました。1度目は2006年の10月、BDA問題と米国の制裁があり六者会合が中断したあとのことです。残りの4回はいずれも2009年以降に行われました。この期間は六者会合が停止し、事態がエスカレートをはじめ、完全に悪循環に陥ってしまった時期にあたります。

 2009年1月20日、米国でバラク・オバマ新政権が発足しました。その前年に韓国では、盧武鉉(ノ・ムヒョン)氏に変わって、北朝鮮に対して強硬的な政策を掲げる李明博(イ・ミョンバク)氏が大統領に就任しています。これまでと同じように、指導者の交代は朝鮮半島に新たな不安定要素をもたらしました。

 米国の新政権は、ブッシュ政権二期目において北朝鮮は合意文書に規定された事項を履行してこなかったと考えていました。米国を欺き騙すというやり方を許してしまったと。米国と北朝鮮が関係を結ぶことに反対することがワシントンにおいて“ポリティカリ・コレクトネス”となったのです。ことに軍と議会ではそうでした。オバマ大統領はリベラル主義者であり、選挙中には繰り返し米国の国際社会におけるイメージを改善する必要性を訴え、“核無き世界”を宣揚していました。そして就任後、彼は世界の非核化と核安全保障の構築を優先課題にあげました。これが彼の政権をぎこちない立場においやりました。ブッシュ政権の後期のような妥協の道を歩むこともできず、かといって徒に武力の誇示を行うこともできないからでず。

 オバマ大統領は就任演説において“米国の敵”に対して“あなたが、握りしめた拳をすすんで解くなら、私たちは手を差し伸べよう”と述べました。これは印象的な言明です。また、国務長官就任前のヒラリー氏は上院聴聞会の席で、オバマ政権の北朝鮮政策は前ブッシュ政権よりも柔軟且つ開放的なものとなることを示唆しました。

 しかし北朝鮮はこの米国の態度に対して好意的な反応を示さず、後に起こるいくつかの出来事は緊張をエスカレートさせることになりました。3月、北朝鮮は取材のために中朝国境付近を訪れていた米国人女性記者2人を、不法入国したとして拘束しました(8月にクリントン元大統領が訪朝したことで2人は解放されました)。4月5日、北朝鮮は実験用通信衛星光明星テポドン)2号の発射を宣言、23日には六者会合からの離脱を表明しました。4月25日、北朝鮮外務省は実験用原子炉から取り出した使用済み核燃料の再処理プロセスを開始したと発表します。続く5月25日、北朝鮮は2度目の核実験を行いました。

 どうやらピョンヤン政府は分析の結果、強硬姿勢に出ることを決定し、核保有の道へ大きく舵を切りはじめたようです。北朝鮮がなぜ態度を硬化させたのか、難しい問題です。韓国の政権交代のせいかもしれませんし、単に六者会合への信頼を失ったからかもしれません。

 2009年6月12日、安全保障理事会において決議1874号が全会一致で採択されました。決議は北朝鮮によって行われた核実験を“最も強く非難”し、決議1718号の規定を完全に履行するよう要求しました。さらに武器輸出入の禁止、北朝鮮に関連する船舶及び北朝鮮を出入りする船舶に対する検査も要請されました。これは外貨が流入し核・ミサイル開発に使用されることを防ぐための規定です。

 2009年10月4日から6日、中国の温家宝首相が訪朝し金正日と協議を行いました。それから緊張が和らぎ2010年1月、北朝鮮は制裁の解除を前提として、六者会合の枠組み内で米国と平和条約を締結したい意志を表明しました。しかし米国は制裁を解除する前に六者会合を再開し、そこで平和条約に関して協議すると主張します。

 2010年3月26日、乗組員104人を乗せた韓国の軍艦“天安”が黄海に浮かぶ白翎島(ペンニョンド)と大青島(テチョンド)の間で沈没し46名が亡くなりました。船尾に原因不明の爆発が起こったのが原因ですが、米国と韓国はこれをいち早く北朝鮮による魚雷攻撃によるものと非難しました。ロシアはその後の国際調査に参加しましたが、中国は参加していません。北朝鮮は認めませんでしたが、韓国は南北間の交易を禁止する措置をとりました。疑いようもなく、この事件は北朝鮮と米韓の間の緊張を高め、不信と対立を深めました。

 5月12日、朝鮮労働党の機関紙“労働新聞”は北朝鮮核融合反応に成功したと報道しました。米国と韓国は外交部・国防部長官による“2+2”会談の後、北朝鮮の大量兵器製造を支援したとして、5つの団体と3個人に対して新しい制裁を課しました。

 この間中国は継続して六者会合再開のための斡旋を行っていました。そして2011年3月15日、北朝鮮の外交部長官は無条件で六者会合に復帰すること、そしてウラン濃縮に関して協議を行うことに同意しました。10月に入り、北朝鮮側は米国、韓国、ロシアとそれぞれ会合をもち、無条件で六者会合に復帰する意志があることを伝えました。

 そして12月17日、金正日が突然世を去りました。

 もう一つ、2011年の国際社会では注目すべき事件が起こりました。2月、“アラブの春”がリビアに波及し、カダフィ政権に対する民衆のデモ行進が開始され、それはすぐに内戦へと発展しました。3月17日、国連安全保障理事会は決議1973号を採択し、リビア上空に飛行禁止区域を設定しました。3月19日、仏・英・米を中心とした多国籍軍カダフィ政府軍への空爆を開始します(リビアは2003年に大量破壊兵器を放棄しています)。10月20日カダフィスルト市において反政府軍の手に落ち惨死しました。カダフィは公の場での最後のスピーチで金正日に言及してこう語りました。「彼はきっとわたしを見て、微笑んでいるだろう。」実際、北朝鮮リビア情勢を注意深く観察していました。4月18日の労働新聞は書いています。「近年アメリカの圧力によって核兵器を道半ばで放棄してきた国々の末路を見ると、我々の選択がいかに賢く正確なものであったかがわかる・・・これが民族国家の自主独立と安全を守る唯一の道なのだ」

 リビア内戦アラブの春がもたらした結末が北朝鮮の核保有の選択に影響を与えたことは否定できませんが、それでも対話を完全に放棄したわけではありませんでした。金正日はその死に至るまで“無条件で六者会合に復帰する”と言っていましたし、後継者である金正恩も当初は父が作った方向性にそって交渉にあたることを認めていました。

 六者会合再開の目処が立たないなか、2012年2月23日と24日、北朝鮮と米国は北京において三度目の高官会議を行いました。両国は再度“9.19共同声明”を履行することを確認し、平和協定に先立つ朝鮮戦争休戦協定が朝鮮半島の平和と安定の基礎である旨を表明しました。又両国は関係改善のため、相互信頼を構築するための措置を協調してとっていくことに同意しました。

 2月29日、米国と北朝鮮は別々に“2.29米朝合意”を公表しました。内容には相違がありましたが、項目は両者の基本的な共通認識を反映したものとなっていました。骨子は以下の通りです:北朝鮮は核実験と長距離ミサイル発射実験、ウラン濃縮活動を臨時中断し、IAEAの査察と監督を受入れる。米国は北朝鮮に対する敵視政策をやめ、関係改善に務め交易を拡大する。又、米国は北朝鮮に食糧24万トンを供与する。

 その後の数ヶ月、この合意に“衛星の発射”は含まれるのかという解釈を巡って多くの主張及び反論の応酬が行われました。北朝鮮は、長距離ミサイル発射実験の中断には衛星発射は含まれないと訴えました。他方の米国は含まれると主張しました。残念ながら、結局のところどのような合意であったのかははっきりしませんでした。(訳注:宇宙ロケットとミサイルは技術的には同じもの。搭載されるのが衛星であるのか爆弾であるかの違いがあるだけ。)

 2012年4月13日の朝、北朝鮮は初の実用衛星“光明星3号”の打ち上げを行い、これを受けて米国は合意事項である食料の援助を行わないことを決定しました。5月2日、国連安全保障理事会北朝鮮制裁委員会は制裁リストを更新し、新たに三つの北朝鮮の団体を制裁リストに追加しました。5月13日(訳注:これは4月13日の誤りだと思われる)、北朝鮮最高人民会議の第12期第5回会議において憲法改正を行い前文に以下の文言を追加しました。“金正日同志はわが祖国を不敗の政治・思想強国、核保有国、無敵の軍事強国にされ、社会主義強国建設の輝かしい大路を切り開かれた。”

 6月18日、オバマ大統領は北朝鮮が米国にとっての脅威であり続けているとして、制裁期間を1年延長することを宣言しました。12月12日、北朝鮮人工衛星光明星3号2号機”の打ち上げに成功したと発表しました。これは一般的にテポドン2号ミサイルだと信じられているものです。2013年2月12日、北朝鮮は三度目の核実験を行いました。3月7日、国連安全保障理事会は全会一致で決議2094を採択、北朝鮮による核実験を譴責し、新たな制裁を課すこととなりました。4月2日、北朝鮮原子力機関のスポークスマンが、2007年以来停止・封印していた寧辺の5メガワット黒鉛減速炉を再稼動させたと発表しました。

 2014年、2月24日に米韓が合同軍事演習“キーリゾルブ(Key Resolve)”を行って以降、北朝鮮は繰り返し様々なタイプのミサイル発射実験を行うようになりました。

 2015年5月20日北朝鮮は“核攻撃の手段の小型化及び多様化に成功した”と発表しました。

 2016年に入ると事態はさらにエスカレートしていきます。1月6日、北朝鮮は四度目の核実験を実施しました。1月13日、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は記者会見で弾道弾迎撃システム「高高度防衛ミサイル」(THAAD)の導入を検討すると発表しました

 2月7日、北朝鮮は長距離ミサイルを使用して人工衛星を打ち上げたと発表しました。

 3月3日、国連安全保障理事会は全会一致で決議2270号を採択し北朝鮮に対して新たに系統的な制裁を加えることを決めました。

 2016年の3月から4月にかけて、米韓両国は大規模な合同軍事演習“キーリゾルブ”及び“フォールイーグル”を実施しました。演習には30万の韓国軍兵士、1万7千の米国軍兵士が参加し、空母打撃軍・戦略爆撃機といった戦略兵器が投入されました。そして、演習には“斬首作戦”の訓練も含まれていました(訳注:斬首作戦とは米軍の作戦概念“Decapitation Strikes”のことで敵指導部を除去する作戦を意味する)。米韓両国は70年代からほとんど毎年のように“キーリゾルブ”、“ウルチフリーダムガーディアン”、“チームスピリット”等の軍事演習を行っていますが、近年その規模は拡大傾向にあり標的性も増しています。それに対する反応または準備として、北朝鮮は軍民を動員し戦時体制を敷き、軍隊の再編成を行い、場合によっては歩兵の増強のために予備兵を徴集したりします。こうした演習は半島に緊張を生み出すだけでなく、北朝鮮に人的、物的、経済的資源の損耗を強いることになり、北朝鮮経済ひいてはそこに住む人々の命に対し直接的な圧力をかけることになります。

 その後北朝鮮は更に5度“ムスダン”ミサイルを発射しました。6月1日、米国財務省北朝鮮を“マネーロンダリングの主要懸念先”に指定し、続く6月6日には指導者である金正恩氏を初めて制裁対象者のリストに明記しました。北朝鮮はこれに対して、7月8月、500キロ先の海上にミサイルを打ち込むことをもって応えました。

 8月22日、米韓両国は毎年行っている合同演習“ウルチフリーダムガーディアン”を実施しました。これに対して北朝鮮は、潜水艦発射弾道ミサイルSLBM)を8月24日に発射し、9月3日にはさらに3発の弾道ミサイルを発射し、9月9日には5度目の核実験を行いました。それから82日後の11月30日、国連安全保障理事会は決議2321を全会一致で採択します。注意すべきは、決議において北朝鮮最大の輸出品である石炭の輸出に制限を設けたことです。中国は関係諸国に対して、問題を平和的・外交的そして政治的なマナーで解決するためにできるだけ早く協議を再開するよう呼びかけました。

 オバマ政権の8年を振り返ってみると、米国は北朝鮮の核問題をその体制に対する不承認と関連付けて扱ってきたようにみえます。実際、広く伝えられる北朝鮮の“残虐な体制”は国際社会にとって頭痛の種であり続けています。オオバマ政権は“戦略的忍耐”を掲げてきましたが、その内実は北朝鮮がどのような態度を示そうとも、米国は彼らの安全上の不安に対して真剣な考慮をもって対応しないというものです。北朝鮮が交渉を望むならそれに応じはするが、進展させる気はない。威嚇してくるなら制裁を強化する。結局のところ、目的は継続的に圧力をかけて体制の崩壊を待つというものでした。

 米国はニューヨーク、ピョンヤン、クワラルンプールにおいて、水面下の或いは半公開の交渉を北朝鮮と続けてはいましたが、北朝鮮は核開発計画の放棄を呑みませんから、この接触の効果は限定的なものでしかありませんでした。つまり、オバマ政権の“忍耐”という名の強硬姿勢と北朝鮮の核保有に対する強い意志がぶつかったわけです。両国が互いに反発を醸成しあった結果、半島の情勢は悪循環の螺旋の中に入ってしまいました。

 北朝鮮の核・ミサイル開発が進展を続けるにつれて、米国の“忍耐”も限界に近づいてきます。ワシントンは北朝鮮の米国に対する潜在的危機を評価しなおすと表明しました。北朝鮮が本土攻撃能力を獲得するのは時間の問題というところまできているようです。そして、米国内の反北朝鮮感情が高まり、北朝鮮に関する真偽不明の雑多な情報が広がりました。議会ではオバマ政権の対北朝鮮政策を“弱腰”“無能”だと譴責する声も大きくなってきました。

 トランプ政権は発足後、北朝鮮の核問題をアジアにおいて優先的に対処しなければならない脅威と位置付けました。米国が同盟国と共に北朝鮮へのピンポイント攻撃に向けて動いているといったニュースも軍方面から伝わってきています。そうして朝鮮半島は不確定要素の雲に覆われているという状況です。

 新たに、中国が深く懸念する事柄もでてきました。2016年7月8日、米韓両国が韓国にTHAADシステムを配備することを宣言したことです。THAADシステムに使用されるXバンドレーダーAN/TPY-2は最大・最新の地上移動式レーダーであり、その探知距離は1200~2000キロと言われています。又、分離前の中・長距離弾道ミサイルに対する探知距離は2000キロ以上であり、580キロの距離から弾頭または偽弾頭の正確な着弾点を算出可能とされます。

 もしこれが韓国に配備されるとすれば、レーダーの放射は最も低く見積もっても渤海黄海そして北東及び北中国の一部にまで及ぶでしょう。それは中国の戦略的抑止力が弱まることを意味し、現状不均衡である地域のパワーバランスをさらに悪化させることになります。米国は既に十分なミサイル防衛システム西太平洋に展開しています。THAADを韓国に配備し、それに日本にある2機のXバンドレーダー、さらにグアムに配備済みのTHAADを合わせ情報の共有を行うならば、中国の安全保障にとっては大変な脅威となります。

 中国はまた、韓国へのTHAAD配備が、米国のアジア太平洋における安全保障のゼロサムゲームの追求の再出発にすぎないのではないかと懸念しています。米国が日本やその他東アジアの国へのTHAAD配備を検討しているといった報道も出ています。もしそれが現実になれば、中国と米国は深刻な戦略的均衡の問題に直面することになり、アジア太平洋地域は軍事力競争に押し出されることになるでしょう。

 結論

 さて、残るはこの北朝鮮核問題がどこへ向かうのかということです。三つの可能性が考えられます。

 第一の可能性は米国・国連による制裁、北朝鮮による核・ミサイル実験、そしてまた制裁、という悪循環が続きやがて“臨界点”に達するというものです。北朝鮮のように閉鎖的で孤立した国にとって制裁は大変な圧力となります。しかし彼らは持ちこたえるでしょう。そして核放棄は遠のくでしょう。事実を言えば、北朝鮮が核実験を開始したのは制裁が始まった後のことなのであり、5度の核実験は度重なる制裁の強化という背景のもとに行われたものです。したがって、こうした状況が長期化すると事態は泥沼に入りこみ、制裁と実験が繰り返された先に北朝鮮の技術力が“臨界点”に達するであろうことは、想像に難しくないでしょう。そこまでいけば、北朝鮮の核保有に反対する勢力は極めて困難な選択を迫られることになります。予測不可能な結果を招くであろう“極端な行動”に出るのか、核保有を容認するのか。

 この循環から抜け出すことは二つの理由によって困難なものとなっています。一に、北朝鮮は国家の安全確保のために核を保有することを固く決意しているらしいこと。それが彼らの国策でしたし、近年その方針はより強固なものとなっています。北朝鮮は長年安全上の脅威にさらされており、様々な会合に参加しましたが安全の保障は確保できていません。そしてリビア等の外国の末路もピョンヤン政府の思考に影響を与えました。二に、米国が妥協する意志をいささかも示さず、北朝鮮との交渉を拒否していること。それが政治的に正しい見解ということになっています(特に軍と戦略部門で)。同時に、この危機を利用して東北アジアにおける戦略的配備や軍事活動を強化したいという意図もあり、核問題の解決そのものには照準をあわせていないように見えます。こうした政策上の惰性を考慮すると、交渉への方向転換は大きな抵抗を受けることでしょう。トランプ大統領は果たしてこの旧習から抜け出し活路を開くことができるのでしょうか。いずれ分かる日が来るでしょう。

 米国ではしばしば軍事オプションが議論になります。深刻な考慮を踏まえた分析の結果、毎度次のような結論に至ります。朝鮮半島に展開されている巨大な軍事力を鑑みれば、軍事アクションは(その大小に関わらず)膨大な市民の犠牲を生み、半島はコントロール不能な状態に陥るであろう。

 軍事オプションがテーブルの上にあるということそれ自体が安定を脅かし、関係諸国間の不信の源泉なのです。情勢が“臨界点”に近づくほどに、次のステップに向けて協調していくには、米国がその言動を注意深く検討することが重要になってきます。もちろんこれは米国だけでなく、中国含めた関係諸国全てにあてはまることです。

 第二の可能性は北朝鮮の崩壊です。米国と韓国はこれを望んでいます。米国は北朝鮮に対して不承認・敵視の政策をとってきました。その最終目標は体制の転換です。これはまたオバマ政権がとっていた“戦略的忍耐” の基本原則の一つでもあります。誇張して言いますと、米国の“忍耐”とは制裁を強化し交渉のチャンスは与えず、北朝鮮内部から変化が起こるのを待つというものでした。米国内では、北朝鮮との対話に応じることは、しばしば彼の国の政体を助け変化を遠ざけるものだと見なされます。そうであるから北朝鮮は、米国は敵視政策をやめないだろうと固く信じ、より強く対抗せねばならぬと考えるのです。

 現実的に、北朝鮮の経済はすでに最悪の状況を脱しています。金正恩氏が最高指導者になって以降、国内は安定しているのです。確かに北朝鮮の内政やふるまいは国際社会の反感を招いてはいますが、少なくとも短期的には、核問題の解決として北朝鮮の崩壊を期待することは非現実的です。

 第三の可能性は真剣な対話と交渉を再開するというものです。これは緊張を緩和し、核問題の解決につながります。もちろん、すぐには難しいでしょう。米国と北朝鮮は互いに深い不信を抱いており、多国間協議も挫折してしまい協議に対する関係国の信頼は損なわれたままです。しかし過去の経験は対話のメリットをはっきりと教えてくれます。第一に、対話は情勢を安定化し、協調して問題にあたるための足場をつくります。第二に、対話は合意に至る道を切り開きます。“9.19共同声明”“2.13共同文書”“10.3共同文書”これらは六者会合の成果であり、参加国の共通認識を反映し、北朝鮮核問題の政治的解決に向けたロードマップでもあります。会合が挫折したのは合意の履行が不完全だったからあり、核問題は会合が中断している間にエスカレートしていったのです。

 ここで注意すべきことは、北朝鮮の核・ミサイル技術が進展したことによって状況は大きく変化し、対話の立脚点も六者会合が始まった2003年からは遠いところにあるということです。

 協議を再開する場合、私たちがこの変化した現実を受け入れられるのか、何の条件もつけずにオープンに対話に臨めるのかが重要となってきます。言いかえますと、もしどこかの代表団が変化を認めず過去に戻ろうなどと考えた場合には協議の成功は難しいものとなるでしょう。現状、一つの現実的な方策として“双方停止(double suspension)”があります。

 中国の王毅外交部長は2017年3月8日、記者会見で以下のように述べました。

 “緊張高まる半島情勢への対応策として、中国は次のように提案したいと思います。ファーストステップとして、北朝鮮が核・ミサイル実験を一時停止すること。そして米韓も合同演習を見合わせること。この“双方停止”は我々を安全保障のジレンマから開放し、交渉に席に戻ることを促すでしょう。次に私たちは一方で半島の非核化を目指し、他方で平和体制の構築を進めるという“並行推進(dual-track approach)”をとる必要があります。協調しながら各国が対等に問題に当たることによってのみ、永続的な平和と半島の安定に至る根本的な解決策を見出すことができるのです。”

 つまり、中国は各国が平行して核問題及び安全上の不安に対処すべきだと提案しているのです。

 2017年4月、フロリダで中米首脳会談及び初の外交・安全保障対話が開かれ、北朝鮮核問題を巡って両国は突っ込んだ意見の交換を行いました。中国は半島における非核化と平和と安定にコミットしてきたこと、そして対話と協調による問題解決を重ねて主張しました。また、安全保障理事会北朝鮮に対する決議を引き続きしっかりと履行することも表明しました。中国は更に、半島非核化のための“双方停止”及び“並行推進”について説明し、協議再開のための突破口となりうることを強調しました。又THAADシステム配備に反対することも再度伝えました。

 会談において両国は半島の非核化を最終目標とすることを確認し、緊密な連携をとっていくことに同意しました。会談は中米双方にとって、また関係諸国にとっても信頼醸成につながるものとなり、また東北アジアの包括的平和に向けての希望を示すことができました。

 結論です。中国の利益は半島の非核化を実現すること、そして北朝鮮及びアジア太平洋地域の平和と安全の崩壊を阻止することにあります。中国の責任は上記目的の平和的実現のために積極的な役割を果たしていくことであり、和平合意を促進し地域の永続的な平和と協調を目指すことです。同時に、中国は朝鮮半島に大規模な動乱が発生したり衝突が起ったりすることを断固として阻止します。対話だけが相互の安全を担保します。こうした方向性において、私たちは半島情勢が悪循環から抜け出せるよう努め、東北アジアが“黒暗森林(訳注:中国のSF小説)”とならないようにしたいと考えるのです。