手探り、手作り

樂しみ亦た其の中に在り

「人口減少社会の未来学」内田樹 編

「人口減少社会の未来学」2018

編者:内田樹 文藝春秋

 

日本の人口は減る。地球の人口はまだ当分増えるようだけれど、日本の人口は減る。増え続けるわけがないのだから、どこかで頂上を打って、そこから減るのは自明である。

日本では2010年ころから減りはじめたらしい。減りつづけてゼロになるはずもないのだから、どこかでとまって、また増えるのだろう。

けれど、当分減ることは間違いない。

少子高齢化で、生まれる人間より死ぬ人間のほうが多い状態が当分続くのだから、人口は減るに決まってゐる。

当分減ることは間違いないのに、そのための準備がまったくできてゐない。人口減少型の社会システムをどうつくるか、という議論が、すでに減少局面に転じて10年近く経過してゐるのにかかわらず、まだ始まってもゐない。

戦慄しよう。

内田先生は序論で次のように述べてゐる。

 もう一度いいますけれど、僕たち日本人は最悪の場合に備えて準備しておくということが嫌いなのです。「嫌い」なのか、「できない」のか知りませんが、これはある種の国民的な「病」だと思います。

ここから内田先生は、危機から目をそむけ、見ないことにするという、この「日本人の集団的無能」についての考察を行う。

これがいつものことながら無類に面白い。

事態は極めて深刻だから、無類に面白いなどと言ってる場合ではないのだが、言ってる場合ではなくても、知性は否応なく活性化させられてしまうから、つい、面白いと言ってしまう。

内田先生、スゴイ。

「エアポート77/バミューダからの脱出」からの論述とか、こんなに面白く書く必要がないのに、つい書いちゃうあたりが内田先生のサービス精神。

ちょっと違うかしら。筆力がありすぎるということかな。

ほんとに、イチローのヒット打ちまくりと同じレベルで、内田先生の書きまくりには驚愕します。

それはいいとして。

日本人は「最悪の事態」を想定すると、それにどう対処するかをクールに思量し始める前に、絶望のあまり思考停止に陥ってしまうからです。 

 ということなんだ。ほんとそうだよね。おいらもだよ。

破局が到来しら場合には社会全体が大混乱に陥るので、そんな時に「責任者は誰だ」というような他責的な言葉づかいで糾明する人間はもういない。そんなことをしている暇もないし、耳を貸す人もいない。だったら、いっそ破局まで行った方が個人の責任が免ぜられる分だけ「得」だ、それが「敗北主義が敗北を呼び込む」というロジックの裏側にある打算です。 

この国民的病は戦前から変わってゐない。今も同じことをしてゐる。だから日本人がこれから行う「後半戦」にあたっては、「日本人というリスクファクター」を勘定に入れておかなくてはいけない。

たいへん苦しい話が続くが、内田先生の文章はつねに愛にあふれてゐるから、今回も当然、最後は愛のことばである。

 人間がそこにいて「生気」を備給しているシステム、それを維持するためのプレイヤーたちが人間的成熟を求められるようなシステム、プレイヤーたちが「いい人」「誠実な人」「言葉を違えない人」だと周りから思われることがその維持に不可欠であるようなシステム、それが最後に生き残るシステムです。同意してくれる人は少ないかもしれませんが、僕はそう考えています。

眠いので書かないけれど、他の10人の論者の寄稿もいづれもたいへん面白い。

すごくいい本。